2022.12.29 

②山門

④本堂 本尊の薬師如来は、およそ1300年前に行基によって作られたもので、重要文化財に指定されています。

=龍頭光山筑前国分寺=

創建 奈良時代

開基 聖武天皇

本尊 薬師如来

宗派 高野山真言宗

札所 九州四十九院薬師霊場(1番)

筑前国分寺は、大宰府政庁跡から北西に位置しており、その西側には国分尼寺跡、東側には両寺の瓦を焼いた瓦窯跡が残っています。伽藍は、中門・金堂・行動が直線上に配置され、中門の左側に七重塔がありました。現在の伽藍は、創建時の金堂跡に重複しています。

741年(天平13年)に聖武天皇は、仏教による地方政治の安定と文化の交流をはかるため、国ごとに国分寺と国分尼寺の建立を命じました。筑前国分寺の創建の記録は残っていませんが、この詔によるものと考えられます。

数々の兵火により本堂などを焼失し、江戸時代中期には創建時の筑前国分寺は廃絶していました。しかし、歴史ある国分寺が廃絶したことを嘆いた修行僧が、草堂を再建し、数十年後の元文年間(1736年-1741年)に薬師如来を安置する堂と小庵を結び、これが現在の筑前国分寺につながります。天明年間(1781年-1789年)に山門を修復・再興が図られ、黒田美作により田地の寄付を受け寺の財産としました。その後、1827年(文政10年)に本堂を焼失、1833年(天保4年)に庫裏が再建、1891年(明治24年)に本堂が再建されて寺院としての体裁を整えました。

 

d-327.pdf (kyuhaku.jp)

⑦八角燈籠 奈良の東大寺大仏殿の前にある銅燈籠をイメージしたもの

⑨七重塔跡 10世紀には失われたものと考えられています。太宰府市文化ふれあい館の敷地内に七重塔の模型があります。

⑪本堂の後ろ側にある講堂跡 11世紀に廃絶したと見られます。

⑫筑前国分尼寺跡 筑前国分寺から西に約100mの場所にあったとされ、南門と推定されるものが発見されています。ただ、今は畑になっていて、往時を思わせるものはありませんでした。

⑬国分尼寺礎石 国文共同利用施設の駐車場に礎石の1つが移設されています。もう1つは太宰府市役所の前の庭に移設されているそうです。

⑮国分瓦窯跡 筑前国分寺の東方にある瓦窯の遺構です。奈良時代の初めから平安時代にわたって使用されたと考えられ、この窯で焼かれた瓦は筑前国分寺や国分尼寺、大宰府政庁、観世音寺にも運ばれ屋根瓦として使用されました。江戸時代には谷はせき止められて池となっています。かつては9基以上の窯が確認されていますが、2基は水の浸食から保護するために埋め戻されています。