2022.12.29 講堂(本堂) 1688年(元禄元年)に藩主黒田光之によって再建

=清水山観世音寺=

創建 7世紀後半

開基 天智天皇

本尊 聖観音

宗派 天台宗

札所 九州西国三十三観音(33番)

九州随一の仏像の宝庫である観世音寺の縁起は伝わっていませんが、関連文書として最も古いものは905年(延喜5年)の「観世音寺資材帳(国宝)」です。

「続日本書紀」によると、7世紀末に天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願し、造営が完了したのは発願から約80年後の746年(天平18年)のことでした。観世音寺境内から出土した瓦の内、創建時の瓦とされるものは、老司I式と称され、飛鳥の川原寺や藤原京の瓦の系統をひくもので、福岡市南区老司にあった瓦窯で7世紀に焼造されたものです。国宝の梵鐘は、正確な鋳造年代はわからないものの、戊戌年(698年)の銘がある京都妙心寺と同一の木型によって鋳造された兄弟鐘とみなされています。

現存する観世音寺の建物はすべて近世の再建で、昔の面影はありませんが、発掘調査の過程で回廊で囲まれた内側の東に塔、西に金堂が建つ川原寺式に近い伽藍配置であったと想定されています。その後、761年(天平宝字5年)に鑑真によって当時に戒壇院が設けられ、これは僧になるものが受戒するためにわざわざ都へ出向かずに、観世音寺で受戒ができることを意味しました。

平安時代以降は、度重なる火災や風害によって創建当時の堂宇や仏像などをことごとく失いました。1064年(康平7)には火災で講堂、塔などを焼失したため、現存する仏像はこの火災以降に作られたものです。1102年(康和4年)には大風で金堂、南大門などが倒壊し、金堂はその後復旧したものの、1143年(康治2年)の火災で再度焼失してしまいました。

1630年(寛永7年)の暴風雨で、当時唯一残っていた金堂が倒壊し、観世音寺は廃墟同然の状態に追い込まれましたが、1631年(寛永8年)に藩主黒田氏や博多の豪商天王寺屋浦了夢によって金堂、1688年(元禄元年)には講堂(本堂)が復興されましたが、創建当時の2.5分の1の規模に縮小されました。

平安時代後期以降は東大寺の末寺でしたが、明治時代以降は天台宗の寺院となっています。

観世音寺(福岡県太宰府市) – 太宰府の歴史を伝える仏像群と日本最古の梵鐘 (kanzeonji.net)

④金堂 1631年(寛永8年)に藩主黒田忠之によって再建。創建当時の金堂跡地にあります。

⑤鐘楼 国宝の梵鐘は九州国立博物館に保存されています。

⑥五重塔心礎 礎石は4つ残されています。五重塔の高さは心礎から約6mであったと推測されています。