2022.12.2 岩国城天守

=岩国城(別称:横山城)=(日本100名城74番)

藩名 岩国藩

築城 1601年(慶長6年)

築城主 吉川広家

吉川氏石高 3万石

天守 復興天守

岩国城は、山城の横山城を本丸として、南西に二の丸、北東に北の丸、ほかに水の手などの曲輪が配置され、麓には御土居が配置されました。

岩国城の始まりは、1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いに敗れた毛利輝元が領地を大幅に削減され、広島城から萩城へ移封となりました。同時に、主家である毛利家の存続に注力した吉川広家も、米子城から岩国城に3万石で入封となりました。1601年(慶長6年)に岩国の地に赴任した吉川広家は岩国城の築城を開始し、麓には平時の居館となる「土居」と戦時の城である「横山城」が横山に築かれました。土居が1602年(慶長7年)に完成し、横山城は1608年(慶長13年)に完成し、本丸には4重6階の唐造の天守が建造されましたが、完成から7年後の1615年(元和元年)に幕府の一国一城令により横山城は破却され廃城となりました。これは、周防国には岩国城のみでしたが、長州藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却にあわさざるを得なかったためと言われています。

その後、麓の土居が岩国領の陣屋として、また、1868年(慶応4年)に岩国藩が創設された際には、その陣屋として明治維新まで存続しました。岩国藩は本藩である長州藩より長期にわたって独立した支藩とは見なされず、陪臣として扱われましたが、これは長府藩や徳山藩が長州藩主の子孫による分家として宗家継承権を有していましたが、吉川家にはそれがなかったという事情によるそうです。岩国藩が独立した藩として見なされたのは、1868年(慶応4年)の明治維新の年で諸侯に列しましたが、1871年(明治4年)には廃藩置県により廃藩となったことから、正式に独立した藩と機能したのは3年だけでした。ただし、幕府は3万石の外様大名格として扱っていたようです。

岩国藩の初代は吉川経幹で、2代目は吉川経健は知藩事となり、1884年(明治17年)には男爵から子爵に陞爵しました。

破却された天守は現在の天守の北側にありましたが、麓からの見栄えを重視して、もともとの天守台から約30m南側に「天守構造図」と言う絵図をもとに、東京工業大学教授の藤岡通夫の設計による鉄筋コンクリート構造の復興天守が建てられました。

②錦帯橋と岩国城 岩国城は山の上にありますが、ロープウェイがあるので気軽に行くことができます。

④錦雲閣(登録有形文化財)は、1885年(明治18年)竣工で、居館の「土居」跡に旧藩時代の櫓を模して建造されました。

⑧吉香公園 1885年(明治18年)に旧岩国藩主であった吉川家の氏神社であった吉香神社が、居館である「土居」跡に移設されたのに合わせて、同神社の境内と附属地が庭園として整備されたことに始まります。現在は桜の名所としても知られています。

⑩岩国城ロープウェイの上からの眺め

⑫岩国城からの眺め 素晴らしい眺めですね!

⑮ロープウェイを降りた後に岩国城まで行く途中にある石垣。

⑰空堀跡

㉓もともとの天守台 1995年(平成7年)に発掘復元されました。天守があったのはこの場所でしたが、確かにこの場所では、下から見ると天守の上の方しか見えないかもしれませんね。守りのためと見せるため、時代の違いですね。

㉗大釣井 本丸の西側にあるこの周辺は水の手と呼ばれます。水の手は、城の水を確保する重要な場所で、この大井戸も1608年(慶長13年)の築城の際に作られました。その他に、非常時には武器弾薬等の収納、敵に包囲された際や落城の危機にさらされた場合は脱出口を備えた井戸だとも言われています。