2021.12.20 黒門 1989年(平成元年)の復元
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③12月の松本の朝は寒いです、、、お堀の水にもうっすら氷が張っていて、カモが必死に氷を割りながら前に進んでいました。
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⑤氷が張っているので水鏡にはならず、、、とはいえ、この凛とした佇まい、私は松本城は日本一美しい城だと思っています。
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=国宝松本城(別名:深志城)=(日本100名城29番)
藩名 松本藩
築城 1504年(永正元年)
築城主 小笠原貞朝 石川数正 石川康長
主な改修者 松平直政
小笠原氏石高 8万石
戦国時代の永正年間(1504年-1520年)に、信濃国守護であった小笠原氏が林城を築城し、その支城の1つとして深志城が築城されたことが松本城の始まります。天文年間(1532年-1555年)には甲斐国の武田氏が信濃侵攻を開始し、1550年(天文19年)に林城と深志城などが落城し、信濃国守護小笠原長時が追放されました。これを機に、武田氏は林城を破却し、深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置きましたが、1582年(天正10年)に甲州征伐に伴い武田氏が滅亡すると城代馬場昌房から織田信長に明け渡した後は、信長により木曽義昌に安堵されました。本能寺の変の後は、武田遺領をめぐって、上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還、さらに徳川家康の下、小笠原貞慶が給料を回復し、城名を「松本城」に改称しました。
1590年(天正18年)に豊臣秀吉に寄る小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、徳川家康に従う小笠原秀政も下総国古河藩(3万石)へ移ったことで、石川数正・康長父子が信濃国松本に10万石で移封となり、天守を始め城郭、城下町の整備を行いました。石川氏が松本藩の藩祖となります。
江戸時代に入ると、大久保長安事件により石川康長が改易となったことから、飯田藩より小笠原秀政が再び8万石で入城、大坂の陣以降、小笠原忠真は秀政・忠脩の軍功により2万石を加増を受け10万石で播磨国明石藩へ移封となりました。水野家や松平康長から始まる戸田松平家(戸田氏)が代々居城としました。
明治時代に入り、1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、解体の危機にさらされますが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって買い戻されて解体の危機は回避されました。1876年(明治9年)に不審火により当時筑摩県庁となっていた二の丸御殿が全焼してしまったことから、跡地には1878年(明治11年)に松本地方裁判所が建てられました。
現代に入り、1952年(昭和27年)に天守等が国宝に指定され、1990年(平成2年)に黒門と袖塀、1999年(平成11年)に太鼓門舛形が復元されました。
=小田原征伐以降の推移=
1590年(天正18年) 小笠原秀政(古河藩へ・3万石)→石川数正(松本藩へ・10万石)
1613年(慶長18年) 石川氏改易→小笠原秀政(飯田藩より・8万石)
1617年(元和3年) 小笠原忠真(明石藩へ・10万石)→松平康長(高崎藩より・7万石)
1633年(寛永10年) 松平康直(明石藩へ・7万石)→松平直政(大野藩より・7万石)
1638年(寛永15年) 松平直政(松江藩へ・18万6000石)→堀田正盛(川越藩より・10万石)
1642年(寛永19年) 堀田正盛(佐倉藩へ・11万石)→水野忠清(吉田藩・7万石)
1725年(享保10年) 水野忠恒改易→松平光慈(鳥羽藩・6万石)
ここから廃藩まで、松平光慈の家系が松本藩の藩主を務め、松本藩第9代藩主松平(戸田)光則が最後の藩主となり、苗字を松平から「戸田」に改めました。1881年(明治14年)に家督を相続した長男の戸田康泰は、1884年(明治17年)の家族令により子爵となりました。
国宝 松本城について | 国宝 松本城 (matsumoto-castle.jp)
⑦松本城にはまたゆっくり写真を撮りに行って、今度は城内にも入りたいです。確か大学の時に入ったことがあって、すごく急な気の階段を上って上まで行った気がします。
⑧これはランチの前に撮った写真ですね。お堀の氷が融けているので。
⑨朝一の写真もきれいですが、松本城を撮るのであれば、やはり午後になってからですね。
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