明治期の北海道拓殖銀行

在りし日の北海道拓殖銀行本店ビル ウィキペディア「北海道拓殖銀行」より

北海道開拓が進められていた明治初期、北海道には中小の民間銀行は存在したものの、いずれも小規模な水産業や商業融資にとどまりました。1896年(明治29年)公布の農工銀行法により全国46府県に農工銀行が設置されましたが、これは土地を担保に融資を行うもので、開拓途上の北海道には特別な国策銀行が必要とされていました。このため、1899年(明治32年)に北海道拓殖銀行法を制定、これに基づく特殊銀行として1900年(明治33年)に北海道拓殖銀行が設立され、金融債発行による資金調達が認められました。拓銀は日本勧業銀行、日本興業銀行、農工銀行に代わる役割を果たしていたことから、農工銀行は北海道には設立されませんでした。

1939年(昭和14年)に拓銀法改正により、金融債発行による長期金融から、預金を中心とした短期金融の兼営で規模を拡大、1949年(昭和24年)の拓銀法廃止に伴い民間銀行となり、1952年(昭和27年)に金融債の発行を停止、1955年(昭和30年)には都市銀行に転換しました。

都銀13行の中では最小ではあったものの、拓銀との取引があることは一種のステータスであり、北海道財界においても絶大な影響力を持ち、北海道経済を支える重要な存在でしたが、バルブ期に都市部の銀行が規模を拡大する中、バブルの波に乗り遅れた拓銀は、焦りから不動産融資を拡大するも、バブル崩壊により、巨額の不良債権を抱えることになってしまいました。

その後、北海道銀行との合併を画策しますが、もともとライバルであり、北海道銀行自体もバブル崩壊により弱体化する中で、不良債権を抱える拓銀との統合に反対する意見が多く、拓銀側も都市銀行であるというプライドがあり、利益の4割を依存する北海道以外からの撤退を決断できなかったことから、両社の合併は白紙となり、その後は興銀や長銀との提携や親密であった明治生命、朝日生命に支援を依頼するも、道銀との合併が白紙となり、財務状況の悪化もあり、話が発展することはありませんでした。

1994年(平成6年)に預金量は8兆7000億円をピークに、経営不安から流出が加速し、1997年(平成9年)には5兆9000億円まで落ち込んでいました。1997年(平成9年)に三洋証券の破綻により金融危機に火が付き、拓銀を支援する金融機関も見つからない中、日銀札幌支店から支援を打ち切られたことで、同年11月17日に経営破綻しました。これは都銀初の経営破綻で、破綻後の1999年(平成11年)3月末の決算では、不良債権の総額は2兆3433億円で貸出金の4割に達し、経常損失は1兆4743億円、1兆1725億円の債務超過となりました。拓銀経営破綻の1週間後には4大証券の一角であった山一證券が自主廃業となり、金融危機に火をつけることとなりました。

拓銀の北海道の営業権は北洋銀行、道外の営業権を中央信託銀行が引き続きました。

SankeiBizより 拓銀本店ビルは拓銀の破綻後は北洋大通りビルとして利用されていたものの、老朽化から2007年(平成19年)に解体されました。

2020.9.16 北海道拓殖銀行本店ビル後にできた北洋大通りセンター

=北洋大通りセンター=

竣工 2010年(平成22年)

設計 日建設計 北海道日建設計 ドーコン

施工 大林組 伊藤組土建 岩田地崎建設 丸彦渡辺建設 中山建設 田中建設

所有 北洋銀行 交洋不動産

高さ 96m

④拓銀の合併相手として挙がった北海道銀行の本店ビル。道銀ビルも再開発の検討をしていて、新しいビルは2030年の開業を目指しているそうです。

=道銀ビルディング=

竣工 1964年(昭和39年)

設計 山下壽郎設計事務所 田上建築政策事務所

施工 竹中工務店

所有 平和不動産

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63675600Q0A910C2L41000/ (日経電子版)