2019.12.28

②東大と言ったらこの赤門ですね。でも、赤門は東大の正門ではないんです。

=東京大学赤門=(重要文化財)

竣工 1827年(文政10年)

東大本郷キャンパスは江戸時代には加賀藩前田家の上屋敷があった場所で、前田家の壮大な屋敷が第二次世界大戦までありました。この赤門は1827年(文政10年)に加賀藩12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の娘溶姫を迎える際に造られた御守殿門で、表門を「黒門」というのに対して「赤門」といいました。赤門は一度焼失したら再建されない慣例で、この東大の赤門は現存する唯一の赤門です。

本郷キャンパスに屋敷を構えていた前田家は、東京大学に土地を譲る代わりに、現在の東大駒場キャンパスの農学部の土地の一部と交換し、居住地をそちらへ移しました。今でも駒場公園の中に前田侯爵邸が残されています。東大駒場キャンパスと前田侯爵邸の写真はまた後日!

東京大学付属病院がある場所は富山藩・大聖寺藩、弥生・浅野キャンパスは水戸藩・安志藩の屋敷跡でした。

 

東京大学の歴史を簡単書きます。

旧東京大学は明治政府が設立した官立洋学校東京開成学校(法理文)、東京医学校(医)の統合によって1877年(明治10年)4月に設立された日本初の官立大学です。ちなみに、東大設立の1年前に現在の北海道大学の前身となる札幌農学校が開校しています。

東京開成学校は神田にあったため、1884年から1885年にかけて東京医学校のあった本郷に移転してきました。1885年に司法省管轄の司法省法学校を法学部へ、1886年(明治19年)3月1日に帝国大学令が制定に伴い工部省管轄の工部大学校を工学部へ統合して、文部省管轄の東京帝国大学(法文工理医)が形成されます。その後、1890年(明治23年)に農商務省管轄の東京農林学校を吸収して農学部へ、1919年(大正8年)に経済学部が新設されました。

東京大学の法理文学部へ進むためには、欧米語等を学ぶ教養部門(予備門)を履修することが義務づけられていましたが、帝国大学令制定に伴う大学改革により、予備門は分離され第一高等中学校(後の旧制第一高等学校)となりました。

第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)に東京帝国大学から東京大学に改称し、1949年(昭和24年)に新制国立大学の発足に伴い、第一高等学校と東京高等学校を東京大学に吸収して、それぞれ教養学部、教育学部となり現在の東京大学になりました。

④赤門の裏側

⑤休憩所

=休憩所=

竣工 1928年(昭和3年)

設計 内田祥三

もともとは総合図書館を挟んで西と東にあったそうですが、現在は西側の建物しか残っていません。

⑨撮る角度を間違った。。。もう少し左側から角度をつけて撮らないと。そうすると絵のような写真が撮れます。

⑩ここからは前回までに回れなかった医学部エリアです。

=東京大学医学部2号館(本館)=

竣工 1936年(昭和11年)

設計 内田祥三

⑪左側は補修中?のため、あえて全体は撮っていません。終わったらもう一回撮りに行きたいと思います。

⑫これも総合図書館ですね。。。ものすごく巨大なんですね。

=育徳堂=(弓道場)

竣工 1935年(昭和10年)

設計 内田祥三

=東京大学理学部2号館=

竣工 1934年(昭和9年)

設計 内田祥三

⑯理学部2号館の前は医学部1号館です。

=東京大学医学部1号館=

竣工 1931年(昭和6年)

設計 内田祥三

⑱理学部2号館

⑲旧前田侯爵邸(懐徳館)西洋館の基礎部分。1907年(明治40年)に竣工したルネサンス様式の洋館は、関東大震災の後、東京大学の迎賓館であった懐徳館となるも、1945年3月10日の東京大空襲により炎上し、取り壊されてしまいました。

=七徳堂=

竣工 1938年(昭和13年)

設計 内田祥三

=旧理学部グラウンド観覧席=

竣工 1937年(昭和12年)

=東京大学理学部化学東館=

竣工 1916年(大正5年)

設計 山口孝吉

本郷キャンパスの中では最古の建物です。

=東京大学医学部附属病院東研究棟=

竣工 1928年(昭和3年)

設計 内田祥三

=東京大学医学部付属病院管理・研究棟=

竣工 1934年(昭和9年)

設計 内田祥三

=東京大学医学部付属病院南研究棟=

竣工 1925年(大正14年)

設計 内田祥三 岸田日出刀

=東京大学広報センター(旧:東京大学医学部附属病院夜間診療所)=

竣工 1926年(大正15年)

設計 内田祥三

学生第2食堂がこの時は補修中だったため、終わり次第撮りに行きます。