2019.6.23
①鶴ヶ岡城の敷地内にある鶴岡護國神社
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④荘内神社 庄内藩主初代酒井忠次、2代家次、3代忠勝、9代忠徳がまつられた神社です。
⑤菖蒲
⑥下の再現のように当時は本丸御角櫓がありました。
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鶴ヶ岡城の前身となる大宝寺城は鎌倉時代初期に地頭の大泉氏(後に武藤大宝寺氏)によるものであると言われていますが、砂越城を支配するために送り込んだ大宝寺氏維(後に砂越氏維)が惣領である大宝寺家の介入を嫌い、独立しようとしたことで争いが起き、結局、大宝寺城を焼失、尾浦城に拠点を移したことで、大宝寺城は尾浦城の支城となりました。
大宝寺氏は上杉氏と手を組むことで庄内地方の統一に成功し、権勢を誇りましたが、1583年(天正11年)に最上義光と大宝寺氏家臣の東禅寺義長とその弟勝正らの謀反で、武藤(大宝寺)義氏が自害したことで、庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の地となり、1588年(天正16年)に上杉景勝によって併呑されました。
関ケ原の戦い以降は西軍についた上杉氏は会津120万石から米沢30万石に減封となり、代わって庄内地方を支配したのは最上義光でした。義光は大宝寺城、東禅寺城、尾浦城を拡張し、東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城を鶴ヶ岡城、尾浦城を大山城と改称しましたが、3代目義俊の時代の1622年(元和8年)に最上騒動が発生したことで改易となり、新たに鶴ヶ岡城に松代城から酒井忠勝が入城しました。酒井忠勝は鶴ヶ岡城を本城、亀ヶ崎城を支城として、鶴ヶ岡城を近世城郭へ大規模改修、城下町の整備を行い庄内藩の中心の鶴ヶ岡城が完成したのは3代忠義の時代です。1805年(文化2年)には7代忠徳が藩校である致道館を設置しています。
酒井氏は長岡城へ移動するよう命じられていましたが、領民の反対運動から結局明治時代に入るまで庄内藩の藩主としての地位を保ちました。しかし、幕末の戊辰戦争時は奥羽越列藩同盟の中心藩として幕府側で戦ったため、明治時代に入ってからは罰として公地没収、謹慎処分を科せられますが、日本最大の地主であった本間家を中心とした商人、地主から明治政府への献金30万両で、1870年(明治3年)に酒井氏は庄内の土地に戻ってくることができました。
庄内藩12代酒井忠宝が最後の藩主で、華族制度では伯爵を授爵しています。
鶴ヶ岡城は廃城令ですべて破却され、現在は鶴岡公園として整備されています。
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2019.6.24 表御門
⑩致道館
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⑬孔子の聖廟
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⑮致道館 講堂 1805年(文化2年)に7代藩主酒井忠徳の時に設立された学問所が始まりです。1816年(文化13年)に8代忠器が鶴ヶ岡城三の丸曲輪に移され、1873年(明治6年)に廃校。
同じく三の丸曲輪には致道博物館があります。
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