悔しさがバネになって感動的なドラマが生まれる。
昨日のブログでラグビーの山口良治監督に私が大きな影響を受けた
話をしたが、彼の言葉に
”負けを知らずに成功した名選手はいない” というのがある。
私は、選手に対してなぜ負けたのかを真剣に考えさせてきた。
それをしないと、練習の意味さえなくなってしまう。
勝ちたいからこそ、日々の苦しい練習も耐えられるのである。
指導者はその悔しさと厳しい練習に打ち込んできた姿をを知っているか
らこそ、負けさせてはいけない。勝たせてやりたいという気持ちを多く持
つのである。
私は、常々彼らに言ってきた。
「お前らほど苦しい練習をやってきた選手はいない。自信をもって戦いな
さい。」と。事実、そう思ってきた。
1984年3月、全国ジュニアオリンピック。ピープル西宮時代のことであ
る。私は、高瀬明(小6)を8才の頃から指導していた。
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彼には日本一を合言葉に、かなり厳しい練習を課してきた。彼はそれに
応えて力を蓄え、ここまできていた。10才以下の頃にも全国JOで入賞
してきたが、彼の本当の戦いはこれからであった。
200m自由形、兵庫県では敵なしで全国に臨んだが、そんなに甘いレ
ースは待っていなかった。パンジョSCの蔵岡伸治選手の圧倒的な強さ
を見せ付けられ、メダルも取れず5位に終わり、ショックを受けていた。
宿舎へ帰る道中、中学生の選手たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「おいおい、明が泣いているぞ。」「おかしなやっちゃな、冷やかしたろか」
高瀬明は悔しさのあまり、レースが終わって宿舎へ着くまでずっと泣いて
いたのである。
私は宿舎へ帰り、高瀬明を部屋に呼び寄せた。
この悔しさを日本一の糧にしよう。彼は真っ赤に充血させた目で大きくう
なづいた。夏の大会では2位まで順位を上げた。
そして、中学3年で迎えた全国中学大会、1500m自由形で念願の全国
初優勝を果たし、続く全国ジュニアオリンピックでも貫録勝ちをした。
彼はその後、高校2年生で大きなスランプに陥ったが、3年生では復活を
遂げた。
日本大学では、得意の1500m自由形で、いぶし銀的な存在で全国イン
カレで活躍した。
彼の水泳人生で最も大きな仕事は1993年、日本大学水泳部主将として
インカレを戦い、エリート軍団の早稲田大学の3連覇を阻止すると同時に、
今でも続く中央大学の連覇の開始を1年遅れさせ、母校をインカレ団体優
勝に導いたことである。
彼は、悔しさをバネに現役生活を全うした、私が教えたたくさんんの選手の
中でも、最も称えたい選手である。