山口良治監督の話
私が、ピープル北助松に移って半年くらいたった 1985年のある日、
中2の藤原隆信が1本のオーディオテープを持ってきた。
(彼の関連の記事は11月13日付け”その記録、消しゴムで消してくれ”)
「お父さんがぜひ一度聞いてくれと言っているので」と言うのである。
私が彼を見始めた頃はどちらかというと肥満体系で、到底競泳の選手
とは程遠いイメージであった。前任の沢田良治コーチの元で甘やかさ
れていた選手はほとんどいなくなる中、真剣に私の指導についてきて
いた。どんどん速くなるに従い、体もシェイプアップしていた。
私の指導を子供から聞いていたのだろうか、すぐお父さんに電話でお礼
を伝えると、
「島田コーチやったら、たぶんわかると思うから、是非聞いてみてくれ」
と言われた。練習が終わり、そのテープを聴いた。録音状態はあまりよく
なく、耳をすませてやっと聞き取れるくらいであった。
商工会議所が主催する講演会で京都・伏見工業高校のラグビー部監督
・山口良治先生の話であった。荒れ果てた高校の不良連中を苦難の末、
熱血指導により、花園優勝に導いた軌跡をとうとうと語っていた。
先生が指導につかれて間もない頃、その年の全国準優勝校の花園高校
に 113対0 で負けていく中、それまでふてくされていた選手達を見放し
ていたことを悔やみながらこうつぶやいたというのである。
「俺はこの子達に何もしてやっていなかった。今、この子達はくやしいだろ
うなあ」 私はその話を聞き、身の毛がよだった。
試合が終わった後、選手たちがグラウンドを叩いて、
「悔しい、先生、俺らにあの花園に勝たせてくれ」と泣きじゃくったという
のである。
私はそれを聞きながら、涙が吹き出してきてしばらくとまらなかった。
伏見工業高校はその1年後に花園優勝を果たしていった。テレビのスクー
ルウォーズは見たことがあり知っていたが、実話を聞いたのは始めてで
あった。
私は、そのテープをピープル新金岡の藤田コーチ、光明池の片原コーチにも
聞かせた。彼らも私と同じように感動していた。
私の選手たちが急激に強くなっていったのはそれからまもなくである。
その何年か後、アバンス瓢箪山の石川コーチにその話をしたところ、彼は花
園球技場に足を運び、伏見工業高校の試合を見、山口先生に合ったという。
彼のチームもその後、快進撃を始めた。
みんな、すべてはここから始まっていったのである。
片原靖和コーチは、山田佐知子選手を日本長距離の第一人者に育て上げ、
日本記録を次々と更新、オリンピックに送り出した。
藤原隆信君のおとうさん、ありがとうございました。