南房総市【正文寺(普門寺)】 | Mrs.風来坊の足あと手帖

Mrs.風来坊の足あと手帖

千葉県を中心に、休日散策の記録を書いてます。
最近は御朱印収集に目覚め、神社仏閣巡りにもはまってます。

散策以外にモノ作りや日々の呟き事等も書いてます。
よろしくお願いします。

本日は『普門寺』散策です。
安房地方には『安房三十四観音巡り』と言う観音霊場巡りコースがあることを知り、最近神社仏閣巡りにも興味を持ち始めた私は、全部巡ってみたい気持ちが湧き起こり、ふらりと普門寺に来ました。
普門寺は、安房三十四観音巡りの第十九番札所です。
ブログをご覧になっている皆さんは、『普門寺』を訪れたと言っているのに、ここは『正文寺』じゃないの?!と思われたはず…。その理由は、後程。

先ずは観音霊場巡りについての豆知識です。
観音霊場巡りについて
私が調べたところ、観音霊場巡りの祖と言える人は『徳道上人』のようです。
徳道上人は大和の国(今の奈良県)の長谷寺(真言宗智山派)を開基した人です。
62歳の時に病のために亡くなったのですが、冥土の入り口で閻魔大王に会い、生前の行いによって地獄に送られるものがあまりにも多く、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば減罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うようにと託宣を受け、現世に戻され、懸命に広めようとしたのですがその当時は信用が得られずあまり普及しなかったようです。その後250年経て受け入れられたのが『西国三十三観音巡り』。
その後、弘法大師が設けたと言われる『四国八十八ヶ所』、鎌倉の杉本寺に始まり那古寺が結願所(巡礼最後の結寺)である『板東三十三観音』など様々な巡礼コースが確立されていきましたが、『安房三十四観音巡り』もその一つで、鎌倉時代に病疫や飢餓で苦しむ多くの人々を救うために、一人の行脚層が西国三十三観音をなぞり、ここ安房の地に設立したそうです。
安房三十四観音巡りのお寺はこちら→安房三十四札観音霊場巡り一覧

『普門寺』を訪れたのに、何故『正文寺』にやって来たかと言いますと、御本尊の観音像が大正6年(1917年)に祖始堂へ移されたためであります。
明治維新後の廃仏毀釈廃によって廃寺になったり、何らかの理由により近辺のお寺さんと合併して、合わせて御朱印もそちらが受け継いだりと言うお寺さんが他にも幾つかありました。
と言うことで、正文寺にやって来ました。

普門寺について
◆補陀洛山  普門寺
天平19年(747年)行基上人が観音菩薩を刻んで一字を建立したのが始まりと伝えられており、古くは山中にあり岩戸観音と呼ばれていたそうです。
天保15年(1844年)に改築され進行を集めたが、大正16年(1917年)正文寺の祖始堂に移されました。

正文寺について
◆威武山  正文寺
〔創建と真田氏について〕
お寺の創建は、12世紀に三浦半島から渡ってきた真田氏の頭領真田源吾だそうです。
その頃は禅宗のお寺でした。
現在も洞窟の中に、真田氏の供養塔と言われている五輪塔が4基残ってます。
〔正木氏〕
初めは真田氏の菩提寺として創建されましたが、天正2年(1574年)に勝浦城主  正木頼忠が父時忠と正木家代々の菩提寺にしました。
正木家は日蓮宗を信仰していたために、このお寺を日蓮宗に改宗。小湊誕生寺の末寺にしました。(祖師堂には、時忠が彫った日蓮聖人像が安置されてます。)
正木家と言えば、徳川家康の側室であり、紀州と水戸の徳川の祖である、頼宣、頼房の生母お万の方の実家。勝浦城は、家康の忠臣であり、大多喜城主でもあった本多忠勝によって落城。お万は勝浦城のあった八幡岬の40mの断崖絶壁から白い布を下ろし(帯とか腰紐と言う説もあるようです。)それを伝って小舟で命からがら逃げたのですが…。(八幡岬のお万の布さらし)
そんな凛としたお万の方の駕篭を担いだ棒が祖師堂に展示されてます。

それではお寺のご紹介を…。
何とも可愛らしいお寺の案内板が…。



仁王門


金剛力士像




日蓮大菩薩六百遠忌塔


浄行菩薩


御本堂


向拝の彫り物が素敵です。


狛犬と漠


拡大で…。


祖師堂


磨崖の石塔


いぼ観音


大壇那  正木環斉  供養塔


崖の洞窟の中に祀られている、真田氏の供養塔や中世の石塔、観音像等がとても印象的なお寺でした。