大多喜町【大多喜城散策】 | Mrs.風来坊の足あと手帖

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千葉県を中心に、休日散策の記録を書いてます。
最近は御朱印収集に目覚め、神社仏閣巡りにもはまってます。

散策以外にモノ作りや日々の呟き事等も書いてます。
よろしくお願いします。

今日は雨が降ったりやんだりの今一つのお天気。小ウォークです。
大多喜城近辺にあじさいが咲いてないかなとふと思い寄ってみました。

ウォーキングマップ


ショックなことに、花が少なくて楽しむ感じではありませんでした。
唯一綺麗に咲いていたアジサイです。
史跡巡りウォークに予定変更です。


大多喜城
大多喜城は最初は『小田喜城』として真里谷信清(甲斐の武田一族)が築き、その後三代城主が続きましたが、正木時茂に攻め滅ぼされ城主が変わり、更に三代続いたそうです。
城の場所は今の場所よりも1km北の所(現在は住宅地)にあったそうです。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の天下統一により当時の城主 正木時尭が追い出され、その後徳川の時代になり、徳川家康の家臣『本田忠勝』が現在の場所に城を築きました。
その後城主は次々と変わり、元禄16年(1703年)松平正久が引き継いだあと九代続いて明治維新となり、廃城となりました。
本物の城は、天保13年(1840年)に火災で全焼。藩の財政難で元のような城には再現できませんでした。
現在の城は、昭和50年に再建されました。
中は南総博物館となってます。


石垣
石垣には大きく分けて『野面積み』『打ち込みはぎ』『切り込みはぎ』の三種に別れるそうです。
この石垣は、野面積みと打ち込みはぎの中間方法で作られたそうです。


城絵図
明治元年(1868年)最後の城主 松平正賀の時に作成されたもの。


大井戸
千葉県指定史跡、天正18年(1590年)本田忠勝が城を築く際に作られたもの。
水が尽きることなく沸き上がる事から『底知らずの井戸』と呼ばれているそうです。
大きさは周囲17m、深さ20mで、日本一の大きさの井戸だそうです。
昔は8個の滑車と16個のつるべ桶で汲み上げていたそうです。
この大井戸以外に、大多喜城場内に井戸は、20数個あったそうです。
安全のため高いフェンスに囲まれているので、やっとのことで撮影しました。
中には今も満々と水がありましたが、緑色で飲用には不向きと言う感じでした。現在はどのぐらいの水質なのか?気になりました。


薬医門
大多喜城内で使われていた門の一つ。明治の始めに城が取り壊されるときに、この門も民家に払い下げられましたが、その後、学問の門として再びこの場所に移されました。
大多喜城で唯一綺麗に残されている建物だそうです。
場所は大多喜高校東側玄関前にあります。


近くから撮影


ついでに下から見上げた城を撮影(大多喜高校から)


大多喜水道
大多喜城下町は昔から水に恵まれず人々の苦労は絶えませんでした。
最後の城主 松平正質の頃に、ようやく水道工事が具体化されて明治2年(1869年)11月に工事を始め、翌明治3年5月に完成。
この水道によって城下200戸が潤い20haの水田の灌漑が行われたそうです。
水源はここから西に2kmの水流。全長は5.8km。(内
トンネルは4km)トンネルの遥か先にうっすらと向こう側の光が見えるのが分かるでしょうか。凄いです。


大多喜城を建てるときに発掘された石垣が祭られていました。