【争いの源を解き放つ】

結局のところ、自己肯定感とか自己イメージとかが問題になるのも、人が自分をどう評価するかで、いいポストがもらえたりもらえなかったり、いい待遇が受けられたり受けられなかったりする世の中だからなのだろう。つまり、階級社会、ピラミッド型の支配構造に依存して生きているからだ。

インナーチャイルドを解放するワークショップをやっていると、自分が認められなかったとか、愛されなかったという感覚が、本当の自分を生きられない大きな原因になっていることが、ほとんどなのがわかる。それで、この感覚を変えるために、しまいにはこの何千年かの支配の歴史を丸ごと書き換えてしまうしかないこともある。

この場合、過去を書き換えるというのは、意識上でのことにすぎないのだけれど、それによってまったく違うあり方もまた可能なのだという感覚が持てるようになるためなのだ。つまり、オルタナティブなあり方をイメージするということ。それによって、ガチガチにかかっていたブロックが外れて、意識を広げることができる。そうなったときにようやく、本当の自分を生きることができるような意識を持つことができる。

支配がなかった時代、人々は自然とともに自立した生活を送っていたわけだ。誰かが評価して、それに応じて給料をくれるわけではない。自然を相手にしていたら、嘘をついても意味がない。ありのままの自分がありのままに仕事をして、ありのままの収穫を得るだけのことだ。自分の能力を高く見せたり低く見せたりしても、何の意味もないし、おべっかを使ったり取り入ったりしても、何の意味もない。

そうした世の中であったら、人に認められようと努力することも要らないわけで、だから子供を人に評価されるような人間に仕込む必要もない。兄弟を比べて差別する必要もない。自然を相手にしているのだから、どこか外から来る価値観に自分を合わせようとしたり、子供に合わせるようにさせたりする必要もない。うまく行くか行かないか、やってみて、自分で手応えを感じて、学んでいくだけの話だ。

自己肯定感を高めるためにと、自分が優秀な特別な人間なのだと無理に思おうとしても、結局のところ、評価する人やお客さんを騙すことができるだけの話だ。ピラミッド型の階級社会では、それで成功したり、お金を儲けたりすることもできる。そうした構造が今、行くところまで行って、崩壊しようとしているようだ。それは何よりも、人の評価が価値観になってしまうと、人を支配することはできるけれど、中身のある仕事ができる人間が減っていってしまうからなのだろう。

数年前から、認められるか認められないかという価値観で生きていたら、犯罪に加担させられるようなことにさえなっている。つまるところ、支配構造は私たちの利益のためにあるのではなく、私たちを搾取するために存在しているのだ。その現実を、私たちは目の前に突きつけられている。だからこそ、外から与えられた価値観ではなく、自分で現実を見て、判断していくことが、生き延びていくために必要なことにさえなっている。これは、この一極支配の時代がついに終焉を迎えていることを示しているように思える。それぞれが自立して生きていく、多極的な世界へ移行していこうとしていることをだ。

兄弟間の争いは、自分が兄弟よりも認められたとか認められなかったとかで、のちのちまで怨みや怒りの感情がつきまとったりもする。そうした感情が、何かにつけて現れてきて、友達や同僚、パートナーや家族に投影されていく。それで、自分が不当に損をさせられているような感覚がして、現実の状況と合わない反応をして、人間関係を壊してしまったりもする。そうしたことはあまりにも多い。あらゆる争いや人間関係のもつれ、犯罪にいたるまで、すべては兄弟間の争いからから来ているんじゃないかとさえ思えるくらいだ。

実際、子供の頃の兄弟間の争いは、子供にとっては生きるか死ぬかがかかっているような、深刻な問題だったりもする。子供は親に頼らなければ生きていけないわけだし、親に見捨てられることは、生きていけなくなることを意味している。その恐怖感から、兄弟に対して殺意に近い感情を抱いたとしても、無理はないのだ。そして、そういう感情を向けられた方は、まさに死ぬんじゃないかという恐怖を感じもする。だから、ずるいことや危ないことをしたりもするし、それで大人に恐ろしい子供だと思われたりもする。自分が生きていてはいけない悪い人間なのだと思い込むのは、実はそうしたことから来ていることが多い。

何よりも問題なのは、自分が悪い人間だとか、人から嫌がられるとか、あるいは犠牲にされる人間だとか思っていると、まさにそうした状況を引き寄せてしまうということなのだ。もちろん、当人はその事態を避けようとして、ありとある努力をしていたりもするのだけれど、努力すればするほど、まさにその避けようとしている状況を作り出すことになっていたりする。これは、意識の領域を知っている人ならば、よく知っていることだと思う。

こうした無意識の設定を外すには、「私は人に嫌がられると思っている」とか繰り返し33回言うという手がある。これは、やってみればわかると思うけれど、33回唱え終わった頃には、「あれ? 何でそんなことを思っていたんだろう?」と不思議になるくらい、消えている。自分の思い込みにすぎなかったことが、何ということもなく納得できてしまうのだ。

そういったメソッドはいろいろあるのだけれど、しかし究極的には、そうした感情のもつれが、ピラミッド型階級社会の中で必然的に起こっていたことだということを知ることが、今、必要になっているような気がする。どちらが上だとかどちらがより認められたとかの価値観から、もうそっくり出てしまう時が来ているような気がするのだ。時代はすでにその方向で変わってきていると思うし、そうでなければ、争いのあまり滅びてしまうかもしれないところまで来ているようだ。

人に評価されたり認められたりすることが、あまりにも価値観になってしまっていて、それ以外のものが考えられなくなっているくらいだけれど、何千年か前、支配というものがなかったとき、人が何を価値観にして生きていたか、考えてみればいいのだと思う。ある支配者に皆が従わなければならないこともなく、首長のような存在は、人々を搾取するためにではなく、人々を幸せにするためにいただけだった時代のことをだ。

親は、与えられた価値観に合わせて子供をしつけることもなく、お金になる仕事を身に着けさせなければと思う必要もなく、ありのままにさせていたら、それぞれに得意なことを見つけて、それをして生きていけるような世界。親も、子供のためにお金を稼がなければと、好きでもない仕事をすることもなく、誰の方が稼いでいるとか、誰の方が立派な家に住んでいるとか、比べる必要もないような世界。そういう世界に生まれて育っていたら、どこの家族だって、争うこともなく、いじめたりいじめられたりすることもなく、幸せに、仲良く生きていくと思うのだ。

そして、そうした世界は、今はまるで、とてもあり得ないような理想の世界のように思えているけれど、実のところは、搾取するための支配構造がなければ、当たり前にできていくような世界だったのだ。私たちは今、そのことに気づいて、支配が当たり前になっていた意識を切り換える必要がある。それによって、これまで分断させられて、たがいに争わされてきた兄弟たちが、実は同じ仲間だったことに気づくことにもなり、そうなったとき、これまで争いのために使ってきた膨大なエネルギーを、私たちはようやく世界を平和なところにする創造的な仕事に使うことができるようになるだろう。

何百年何千年か続いた戦いと支配の時代を終わらせて、調和の時代に進化していくために、このイマジネーションの力が重要だと私は思う。それぞれがありのままの相手を認めることができるような世界、争いのない世界をイメージしたときに、これまでの争いのすべてが、実は作られていたことが、難なくわかってしまう。そうなったときに私たちは、これまでどうしても和解できなかった人々とも、敵対する気がなくなっていることに気づくんじゃないかと思う。


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