「経験」

約300坪の陸稲(畑で作るお米)の穂先が綺麗に消失した。

一週間不在にしていた間に、鹿のお腹に納まったのだろう。

耕師〜たがやしし〜たちが、種蒔きや草刈りや世話を手伝ってくれていたのに、僕はその陸稲を鹿から守ることができなかった。

鹿たちが越冬するために必要な脂肪となったのは良いが、おそらく味をしめてしまっただろう。来年はやむなくネットを張らざるを得ないかもしれない。

努力と労力はいとも簡単に消失する。それは間違いないが、陸稲が全滅しても消失しなかったものがある。

それは経験。

この経験は必ず知恵に結びつく。怒りではなく感謝。こうやって知恵を育ててくれる自然には、感謝しかない。

また綺麗事を言ってると思われるかもしれないが、穂先がないことに気づいた時、僕は本気でそう思った。

なぜそう思えたかという問いには明確な答えがある。

それは、作物とお金を結びつけていないからである。

人には欲がある。その欲はお金に対するものだとなぜか増幅される。お米を食べられたと言うより、お金を奪われたと感じてしまうと、無性に腹が立ってくる。

しかし僕は、作物をお金に替えることはしない。もちろん、自給のためとは言っても、自分の食料が奪われるのだから、心穏やかと言うことではない。

だが、許せるのだ。

自分の食料なら、他の方法で生み出すことはできる。他で生み出したもので失われた作物分を補うことはできる。

それに、食べられたとは言え、その作物によって繋がれた命はあるわけだ。それで良いじゃないか。

お金というものはとても怖い。お金を失うと、それを補うものがないと人は思い込む。だから争いになる。

作物とお金とを結びつけない暮らし方。

何があっても平穏な心で過ごすための生き方のひとつとして、自分が生み出したものをお金に替えない生活をしてみてはどうだろうかと思う。

もちろんお金は必要である。お金を生み出すのなら、こうして得た経験で生み出していけばいい。

食料は奪われることはあるが、経験を奪われることはない。経験は必ず知恵となり、そしてその知恵はやがてお金に替わるかもしれない。

そういうものだと僕は思う。


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