【ルネッサンス=再生のエネルギー】

ルネッサンスの発祥の地であるフィレンツェには、世界を新たに生み出すようなエネルギーがある。そのエネルギーの中心があるのが、花のマリア大聖堂だ。マリアの名前がつく聖地は、だいたいが大地の女神系のエネルギーで、ルートチャクラと第2チャクラのポイントで、水の要素が強いのだけれど、フィレンツェの花のマリア大聖堂だけは、パワフルな陽のエネルギーだ。第2チャクラが活性化するエネルギーなのに、陽の創造の力なのだ。生み出すように、自然に湧き出すように、創造すること。

花のマリア大聖堂は、当時本当にできるのかどうかもわからなかったような、とてつもなく大きなドームがある巨大な建造物で、どこもかしこも大理石のモザイクで埋め尽くされている。こんな途方もない建物ができあがってしまったのも、この生み出すように創造するエネルギーがあったからこそなのだろう。街そのものがまるで美術館のようなフィレンツェという街も、そうしたエネルギーがあったからこそ生み出されたのだと思う。

花のマリア大聖堂の封印解きセッションをやろうと思ったのは、封印解きクラブのメンバーがフィレンツェに行ったからなのだけれど、このルネッサンスのエネルギーこそは、今の世界に必要なものだと思った。しかし、送られてきた画像を見ると、どこもガチガチに閉じていて、重たくなっているようだった。教会の中はチェックが厳しくて、雰囲気がものすごく重かったそうだ。

EUになってから、フィレンツェもかつての面影を急速に失っていったようだ。フィレンツェは手工業者の街で、小さな個人営業の店がたくさんあるところが、この街の独特な自由で創造的な雰囲気を作っていた。しかし、EUになってグローバル化が進むと、小さな事業はだんだんとやっていけなくなり、グローバルチェーンの店に変わっていった。それが、コロナでとどめを刺されたようだ。

EUもロックダウンも、すべては中小企業をつぶすためにやっていたようだ。ヨーロッパの街の自立した力は、家族経営で伝統を守っている手工芸や飲食店などをやっている人たちの活力から来ていたのだと思う。それがグローバル化が進んで、次々と消えていき、どこの街も同じようになってしまった。伝統を守って生産していた職人さんたちも、グローバル企業の従業員になってしまい、規格通りに働くだけになってしまった。

花のマリア大聖堂は、祭壇のあるところではなく、何もない床の真ん中あたりにスポットがある。そこは、地下に残っている古い礼拝堂のとっつきのあたりだ。2012年にフィレンツェに行ったとき、そこにエネルギーの中心点があることを発見した。その頃も、フィレンツェの街はすでに様変わりしてしまっていたので、私は街を歩き回る気にもなれずに、よく大聖堂のそのスポットのところで瞑想して過ごしていた。

2012年に行ったときには、その場所にマリアの絵がある祭壇が置いてあって、祈る人たちのためのベンチが並べてあったのだけれど、今は何もなく、ただモザイクの床があるだけだった。美大出身のメンバーが、モザイクの床の見取り図を探してきて、聖堂の床の画像から、スポットの位置を探し出してくれた。それで、その位置に自分が立っているように意識を合わせると、12年前に感じたのと同じあのエネルギーが確かに感じられたのだ。画像の上で、これほどピンポイントでエネルギーが変わるのは、初めて経験した。「だいたいこのあたり」くらいの感じで意識を向けても、はっきりしたエネルギーが感じられなかったのに、精確にスポットのところに意識を向けると、まるきり違うエネルギーが身体の中に入ってくるのがわかった。

封じ込めが強い場所では、上ではなくて、地面の下の方へ意識を向ける。封じ込められていても、もともとあったエネルギーは消えはしないからだ。封印解きとは、そうやって地下に残っているエネルギーにアクセスして、意識を向けることで増幅し、解放するのだ。最初は、地下に埋もれている黒っぽい塊のように見えたり、鬼か悪魔のようなおどろおどろしいものに見えたりすることもある。だけど、外に出して大きくしてみると、実は大きな光の存在であり、生命力そのものの力だったりする。

「生み出しなさい」と白い衣を着た女神がとても柔らかい声で言っている。計画して実行するような、そんな重々しいことではなくて、孕んだら時が来て生み出されていくように、自然なこととして、生み出せばいいのだと。「生み出せば、始まっていくのよ」

それは、生命の力そのものを信じてゆだねるようなことだと言える。本当にできるのかどうかなんて、考えなくてもいい。生み出すように自然に始めてしまえばいいのだと。そうしたら、できていくのだからと。自分が作るとか、誰が作るとかではなくて、生き物が生まれ出たら成長していくように、自然の成長の力でできていくのだからと。

それは、第2チャクラ、子宮のあたりに来るエネルギーで、まさに生み出す力なのだけれど、同時にハートから喉のあたりまで来る、表現したい、作り出したいという喜びの力でもある。

このエネルギーは、地表のところでガチガチに封じ込められているようだけれど、スポットのまっすぐ下のところには、確かにまだ生きていた。これを大きく解放するために、カウアイ島のワイアレアレ山にアクセスして、そのエネルギーを繋げてみた。ワイアレアレ山のエネルギーも、生命の根源のようなエネルギーだ。地上に生まれてこようとする喜びと希望の力。こうしたエネルギーは、地球上のいたるところにあるのだと思うけれど、多くは封じ込められている。フィレンツェの大聖堂も、その一つなのだろう。だから、ワイアレアレ山のエネルギーが地球上のそうしたスポットに繋がって、開くようにイメージしてみた。

すると、ワイアレアレ山から白い光の筋が地球上のいたるところに弧を描いて飛んでいき、そこが活性化して、そこからまた光の筋が飛んでいった。そして、地球全体が光の網の目に包まれたようになっていった。それまで地球は、表面がガチガチに封じ込められて、まるで死んだようになっていたのだ。しかし、ワイアレアレ山のところに、生命の種のようなものがあって、それが芽生えたということなのかもしれない。すると、世界中のあちこちに埋まっていた種が、次々と芽生えていったのだ。

ル・ネサンス Re-nassance。再び生まれること。それは、もう死んでしまったようになったところから、種が発芽するように、新しい生命が生まれてくることなのだ。内から湧いてくる生命の力で、小さな種が発芽し、大きくなっていく。何をどうするべきなのかという考えもなく、留めることもできないような力が湧いてきて、どんどん大きくなっていく。

フィレンツェはルネサンスの発祥の地だけれど、ルネサンスが生まれたとき、フィレンツェは疫病で壊滅状態だったのだ。教会は腐敗していて、疫病のさなかなのに、人々がミサに集まることを強要していた。それで教会が感染源になって、人々がどんどん死んでいった。その中で、教会の言うことを聞かずに、街から逃げ出して、田舎の家に避難した人々が、最初のルネッサンスの作品である「デカメロン」を生み出した。教会から自由な人たちが、田舎の家に集まって、司祭たちの腐敗ぶりやエロ話などを語り合っては笑っていたのだ。そうすることで、この人たちは壊滅的な状況の中を生きていこうとしたのだけれど、それがそのまま新しい文化運動になっていった。

フィレンツェ大聖堂のスポットにあるエネルギーは、まさにそうした、壊滅的な状況からでも、新たに文明を生み出していこうとするような、希望の力だと言える。すべてが破壊され、死に絶えて、いったいどこから始めていいのかもわからないような状態から、フィレンツェは生まれ変わり、壮麗な街を作り上げていったのだ。生み出せば、成長していく。引き継がれながらでも、必ずできていく。その信頼があればこそ、何十年かかるかわからないようなものを、人は作り出そうとする。そうやって人類は、何度も何度も無から文明を作り出していったのだ。

それで最後に、芽生え始めてきていたフィレンツェのエネルギーを、アスファルトを破って成長する植物のように、古い構造を壊してでも大きくなっていくイメージを作ってみた。それで、古い街並みが壊れるイメージが出てくるのかと思ったら、そうではなかった。その代わりに、中世風の服を着た職人さんたちの姿が現れてきた。そのとき、ルネッサンスとは、メディチ家でもウフィツィ美術館でもなく、この人たちだったのだということに気がついた。美しいものを作り出すことができる人たち、美しいものを作り出すことに誇りを持って生きていた人たち。この人たちの力こそが、ルネッサンスを作り上げたのであって、この人たちの力があれば、何度でも街は生まれ変わっていくのだということに。

大聖堂のドームから、白い光のような水が噴き出してきて、街中に循環していき、そこから新しい生命が生まれてくるイメージが出てきた人もいた。風穴が開いたように、空気が循環して、すべてが生き生きとしていって、人々が声を出し、歌い踊っているイメージが出てきた人もいた。止まっていた循環が、再び回復するとき、仮死状態になっていた人も、肌に血の気がさし始め、体温が戻り、呼吸が戻って、生気が蘇っていく。その循環さえ戻れば、街は再び新たになっていくのだ。

今、ヨーロッパの街がどれだけ破壊され、死んだようになっていても、締めつける力が弱まってくれば、美しいものを創造していこうとする力は、また戻ってくるだろう。ヨーロッパの根底には、ケルト的、あるいはギリシャ的な多神教の世界があり、多極的な調和を創り出していく力がある。この力は、ローマ・カトリック的な一極支配の力が弱まるたびに、何度も表に湧き出してきては、生き生きとした人間的な文化を創り出していった。ルネッサンスもそうだし、ロマン派もそうだ。それは、生まれては成長していく生命の力と同じように、自然に湧き上がってきては、花が咲くように華麗な形になっていく創造の力なのだ。

この100年あるいは200年ほどの間に、近代化という名前の激しい一極支配化が進んでいき、人間的な多様な表現が次々と絞め殺されていった。しかし今、その極みまで来たところで、私たちには無から有を生み出す力があることを、再び思い出すのかもしれない。その力さえあれば、どんなに街が破壊されても、私たちはまた、人間的な美しい環境を作り出していくことができるだろう。ルネッサンスのときも風の時代だったけれど、今また風の時代に入っている。地の時代の間にカチカチに固まったようになっていた世界も、風が通り始めて、再び軽快になり、生き生きと動き始めるのだろう。

***
画像は、
一枚目 フィレンツェの花のマリア大聖堂
二枚目 花のマリア大聖堂のルネッサンスのエネルギーのスポット。ツボの手前に見える黒の輪で囲まれた赤茶の丸のように見えるところ。
三枚目 花のマリア大聖堂の床のモザイク模様の見取り図。青い線が、地下の古い礼拝堂があるところ。赤の点が、床の写真を撮った位置。スポットは、青い線と中央軸の交差地点。
四枚目 ハワイのカウアイ島のワイアレアレ山


https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=pfbid02QERE3S5j96JWsZnnqwNNWGqe2o9GCr9WNVkf5rPyycGLXHVm5jVsexUeyjzQS28Gl&id=100000165488492