【スピ的プロパガンダの手法】

スピリチュアルというのは、70年代の西洋世界で、キリスト教の束縛から逃れようとした人たちが、ネイティブアメリカンやシベリアやアフリカのシャーマニズム、ヨガや太極など、世界中にまだ残っていた多次元的な意識世界へのアクセス法を求めていったことから始まっている。そこで、ネイティブアメリカンの幻覚性の薬草を使うヒーリングだとか、瞑想の手法やそこで見たヴィジョンの話などが、たくさん出ていた。そうやって、三次元的な世界の他に、まだとてつもなく大きな世界が存在していて、三次元的な現実も、実はそうした意識次元の作用で生じているということが、知られていったのだ。

ところで、そうした意識に開かれると、人々を三次元的なお金とか職業とかそういうもので縛りつけておけなくなってしまうので、支配者にとっては不都合なのだろう。実際、多次元的な領域が見えてくると、お金とか職業とか年金みたいなものよりも、神とか宇宙とかそういう力に守られて、人間は生きていくのだということが、理屈ではなくわかってしまう。だから、事業主とか政府とかに従うよりも、真実に生きた方がいいということになる。それで70年代には、都市の職場を離れて、自然の中で自由に生きようとする人たちがたくさんいた。

世界がこうした流れになっていくと、その領域に権威主義的な構造を忍び込ませて、多次元領域を封じてしまうということが、そのたびに行われてきたようだ。70年代の頃には、ニューエイジと言われるものが出てきて、それが一種の新興宗教のような感じになっていったのだけれど、あれは実はアメリカ中央情報局が意識操作のため作らせた、プロパガンダ工作だったということが、この頃表に出てきたりしていた。

数年前から、メディアを使った意識操作が世界規模で行われていたことが、表に出てきた。コロナのときには、たとえ目の前の現実と違っていても、多くの人はメディアで繰り返し言われていることの方を信じ込んでしまうのだということを、どうしようもなく見せつけられたりもした。私たち人間とは、かくも操作されやすい存在だったのだ。そして、そうした操作がどのようにして行われているのか、どのような心理メカニズムがこんなことを可能にしているのか、といった情報が次々と出てきた。それによって私たちは、第二次世界大戦でのナチのように、普通の平和的な人間に信じられないような残虐行為を行わせるようなことも可能にする意識操作の手法が、現実に使われてきたのだということを、知ることになった。

人々の意識が多次元領域に繋がっていくような流れができてくると、そこに権威主義を潜ませたものが作り出され、それが広められ、人工的にブームにされていくというようなことが繰り返されていったような気がする。急に浮上してきたヒーラーやチャネラーだとかが出てきて、新しい意識変容やヒーリングのメソッドだとか神秘主義的な教えだとかを紹介し始める。それは何だか居心地が悪くなるような歪んだ波動を出していたりするのだけれど、メディアでさかんに取り上げられ、ブームが作られ、多くの人々が殺到していく状況が作られていく。

だけど、そういうものに引き寄せられていく人たちは、だんだん目が虚ろになっていったり、感情がなくなってしまったように表情が固くなっていったりする。明らかに、多次元的な意識に開かれていく解放の方向とは逆のことが起こっているようで、意識が開けていく代わりに、逆に閉ざされていくように見えるのだけれど、当人はそれで幸せになったと思っている。

私のこれまでの経験からして、本当に意識の解放へ向かっていくようなことを教えている人は、割と普通のかっこうをして、普通の人のようにふるまっている。参加者も講師を尊敬はしているけれど、崇拝してる感じではなくて、対等な感じで話しているし、料金もそれほど高くはない。しかも、講習ではかなり不思議なことを皆で経験しているのだけれど、それを誰もそれほどすごいことだと思っていないようなところがある。これは、意識の領域に通じている人ならわかると思うけれど、三次元意識ではあり得ないようなことでも、多次元領域に入り込むと、当たり前な感じで起こるだけなのだ。だから、本当の多次元意識を経験しているほど、何か特別なことができるという空気を出さなくなるのだと思う。

一方、多くのスピリチュアルのセミナーやイベントは、そういう自由な感じではなくて、皆が同じように考えなくてはいけないというような、何か堅苦しい雰囲気がある。同じように考えないと、無知だとか意識が低いとか思われて、排除されそうな雰囲気があるのだ。そういうところで教えている人は、支配してくる感じのオーラを出している。反論したりしたら、ブチ切れられたり、ねっとりと教え諭されたりしそうな感じだ。私は、そういうところへ行くことはほとんどないけれど、たまたま居合わせて、素朴に疑問に思ったことを質問したりすると、だいたいそういう目に遭うことになる。

そういうところでは、講師と参加者の間には、支配と依存の関係のようなものがあって、参加者は講師の言うことに異議をさしはさんだりしてはいけないことになっているようだ。質問も反論のように受け取られて、そんなことを聞くのはどうかしているみたいに、ブチ切れられたりする。それも一種のパフォーマンスみたいなところもあるらしくて、他の参加者たちは、それを見て、大人しく講師に従っていないとと萎縮するのだ。

権威主義的なシステムでは、波動が低いとかエゴだとか闇だとか、何かしら絶対的に悪いものがあるという価値基準があって、それを講師は脅しのように使っている。波動が低かったりエゴだったり闇だったりすると、現実に災難があって不幸になるということになっているし、だから、それは本人のためにも正すべきだということになる。そして、講師はこの価値基準で人を測る権限があるように思わせていて、まさにそれが人々に対する支配力になっている。

それを考えると、これはローマ・カトリックの罪の概念と、基本的に同じものだということがわかる。ローマ・カトリックでは、人の罪を断定したりゆるしたりする権限は、聖職者だけにあるように言われている。そのために中世では、教会で免罪符というものが売られていた。それを買えば、教会が罪をゆるすので、天国に行けるということになっていた。それによって中世の教会は、思うようにお金を集めていたし、それで脅して人々を支配していたわけだ。王族でさえも、教会に楯突いて、破門されたら大変なので、教会を恐れていたくらいだ。

そこで、マルティン・ルターが現れて、聖職者だけが神と話すことができて、人の罪をゆるすことができるなどというのは、ナザレのイエスが言った教えと違う、ということを言い出した。当時は、教会ではラテン語だけが話されて、一般の人々は福音書の内容も知らなかったのだ。福音書も内容がかなり改ざんされてはいるけれど、しかしそれを読めば、確かに神はすべての罪をゆるすと言っているし、誰にでも罪をゆるす権限がある、とも言っている。それまでのカトリック教会は、そのことを隠していたのだ。

そもそもナザレのイエスは、権威主義化していたユダヤ教を解放しようとして出てきたのだ。イエスが会堂に入って説教をしたり、癒やしたりしていたとき、ユダヤ教の司祭たちが、律法学者ではない人間がそんなことをするのはおかしいと非難しに来ていた。神は罪人を厳しく裁く存在であるように思われていたけれど、ナザレのイエスは、神とは誰にでもいる父親のような存在で、親のように無条件に愛して守っているので、そもそも罰するような存在ではないし、どんな罪でも神はゆるしているのだと説いていた。イエスはまさに、罪はゆるされているのだということを人々に知らせることによって、人々を解放し、癒やしていたのだ。

罪の概念は、人を支配するには、最高のツールなのだと思う。だから、罪の概念から人々を解放してしまうイエスのような人物は、消されることになる。この数千年の支配の歴史は、ある意味、この罪の意識をめぐっての闘争でもあったようだ。罪の概念は、人々を支配して、従わせるのに使うことができる。しかし、三次元以上の領域では、神はそもそも罪というものを規定してはいないことが自ずとわかる。少なくとも、特定の人間が定めたりゆるしたりできるようなものではない。これは、神とかハイヤーセルフ、高次元の意識とコンタクトしてみた人は、誰でも理屈なく知っていると思う。

それで、イエスがこの世から消えたあとで、イエスの弟子ではなかったパウロという人物が、十字架を崇拝するキリスト教を作り、このキリスト教が、ローマ帝国の支配に使われていったのだ。ここではまた、罪は教会だけが定めたりゆるしたりできるものだということになった。それで、異教徒は滅ぼしてもいいということになり、他民族を虐殺することに教会が積極的に加担しさえした。

それを見ても、教えの内容がどのようなものであっても、罪の概念さえ独占しておけば、人々にどんなことでもさせてしまえるということがわかる。あれは罪人だと言えば、滅ぼすことも善になってしまうのだ。

ナザレのイエスが出て、マルティン・ルターが出て、そのたびに罪の概念から人々を解放するのだけれど、そのたびにまた、罪の概念で支配する教会組織ができていく。人類はその闘争の歴史をたどってきたようだ。そして、70年代に、宗教から離れて瞑想や薬草などで精神世界を探究しようとする人々が出てくると、今度はカリスマで支配しようとするスピの人たちが現れて、波動が低いとかエゴがあるとかネガティブだとか言って、浄化が必要だと言うようになった。これは、使っている言葉は違うけれど、キリスト教が使っていた罪の概念と、基本的に同じものだ。権威の人だけが決めることができて、どうすればそこから逃れられるのかも、権威の人だけが指示することができる。この権威を使って、人を思うように支配することができてしまうのだ。

それで、ある種のスピの権威に従っている人は、自分はまだいたらないのではないかと自信なげな顔をしていて、大した効果を感じなくても、それはそういうものなのだと思っていたりする。効果のあるなしを自分で判断できると思ってはいけないと思っていたりもする。だから、ある意味、自分で自分がどうなのかもわからなくなっていて、依存状態になっている。

1月20日に冥王星がまた山羊座から水瓶座に入ったというのだけれど、これは、嘘がもう隠せなくなって、真実が破壊的なパワーで表に出てきてしまうようになるということらしい。ということはつまり、もはや嘘は人を支配する力を持たなくなるのだ。ちょうどその日に、私はインナーチャイルドを解放するセッションをやることを思いついて、お知らせを出していた。やってみて、これはまさに世間的に作られた罪の概念みたいなものから、人を解放するようなことだと思った。

そのことからして、まさにこの方向が、風の時代の流れなのだろう。この解放が、毎日どんどん進んでいるのを感じている。人類が罪の概念に支配された2000年がついに終わって、解放された人々が新しい世界を作り出すことになるのだろう。罪の概念も、それによる支配も、存在しないような世界をだ。

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画像は、ロシアのトゥヴァ共和国のシャーマン