Jean Paul Satoru が虚無主義者となったわけ。(サルトルがなぜ虚無主義に走ったかは知らない。)

効かない薬(主に抗がん剤のこと)、救急医療の過酷、消化器系の内視鏡検査を数千件単位で経験し、心肺停止の患者も数多く診た。

彼の言っていることは、予測が当たる、のではなく、知っているだけだ。

人の死ぬのは、日常的に嫌というほど見てきたが、一つだけ耐えられないものがあった。

農薬で自殺を図った若者を助けた(命を救った)ことがあった。
命は助かったものの、神経系がやられ、生涯治ることはなかった。

そこにはある種の絶望が、広く横たわっているが、それは何も、西洋医学に限ったことではない。

虚無主義に至った道程について、こう述べている。

ちょっとコメディカルな分野や整体や鍼灸やカイロやカウンセリングなどを勉強し、西洋医学を批判しているさまは滑稽以外の何物でもない。死人を見たこともない輩たちが、やれこれで癌が治る、やれこれで精神病が治る、やれこの食事療法をすれば病気が治るなど、軽い人々を見て嘘八百を並べている。私が虚無主義になるのはこういう流れがあったからなのだと思う。

《全文》
昨日食事をしたときにある救急医が私を嫌いという話があった。医学不要論では救急こそ認めているのだが、それを書くには自分の長い黒歴史を書く必要がある。これは実は電子書籍で書いていることで、なぜこういう活動をするようになったのか聞かれるので、知りたい人用に低額で売っている。ただ今日の話はそれより詳しく生々しく書いてみたいと思う。たくさん医学専門用語が入るのをご容赦いただきたい。

私は消化器内科(胃腸科)として医者を始めた。もっともオーソドックスな科の一つだ。医者は医局と呼ばれるヤクザ組織に所属する必要があるが(白い巨塔のあれね)、私は忠誠心がなく外様だったので一年大学病院で研修した後、地方の野戦病院に送られることとなった。そこは地方の基幹病院であり400床くらいの規模の病院である。2~3年目はその病院で働き給与も比較的良かった。

しかし非常に忙しい病院で医者の数が少なかった。野戦病院だが市民病院であり研修指定病院でもある。名前は出さないがあまり影響が出ないようにということでご理解いただきたい。知っている人がいても書かないようにしてもらうと助かる。内科は常時100人くらいの入院患者を診ていたが、上級医は5人くらいしかおらず、その他は研修医上がりと一つ二つ上のレジデントクラスの医者で占められていた。

全部で10人ちょっとで外来、検査、入院患者を回していた。そして野戦病院かつ地域基幹病院なので、救急患者が非常に多い病院であった。上級医は外来や検査に忙しく治療処置している場合もあり、入院患者対応だけでなく基本検査および救急処置は若手の仕事であった。私は消化器だったので胃カメラ、大腸カメラ、超音波検査、肝臓処置などをやっていたが、特に私は下部内視鏡をたくさんやった。

上部内視鏡は一年に1500件数くらいはやり、下部内視鏡は3年目は一年で1000件近くやって(やらされて)いた。これは大都会のエライ研修指定病院では考えられないことである。同業者にもよく聞いたが8年目くらいの時の私の大腸内視鏡数は5000を超えていて、その数をその年でやっている医者は業界でもかなり少ないほうである。私はその時は年上に大腸内視鏡を教えていたくらいである。

これは自慢ではなく人数が少なかったので必要に迫られたに過ぎない。プラス出血処置などを上級医と一緒にやる。すごくめんどくさい病院だったがすごく件数だけは稼げた病院だった(入院患者数含めて)。そして一番めんどくさくてつらかったのが救急患者だった。ここは地域基幹病院でかつ野戦病院、そして二次救急の設備とマンパワーしかないのに、CPR(心肺停止)がたくさん来る病院だった。

本来救急は一次から三次まであり、ドラマに出てくるようなきれいで機械がそろい重傷が来るのが三次である。しかし地方のほとんどはそんなものは望めず二次救急がすべてを見ることになる。つまり二年目三年目四年目クラスの医者が、限られた機械の中で心肺停止の救急車患者を扱うことになる。人数は非常に多く、毎日のようにそんな患者がやってくる。昼間は二人の医者で対応できるが夜は一人でやらねばならない。

CPRとか300クラスとか何人の挿管をしてレスピをつないだかもう覚えていない。たぶん年に150件以上はやっているのではないか。それを同僚もやっている。しかしそこにはカテもなければ人工心肺もない。たくさんの人がお亡くなりになったと思うが当たり前かもしれない。しかし地方では普通の内科や外科医がこれを担わねばならない。漫画やドラマの救急の世界などしょせん脚色にすぎない。

この病院が結局一番いろいろ経験した病院であったが、一番つらくて無為な病院でもあった。若手はみんなで「こんなんで助かるわけない」と言い合っていた。また内科はこういう患者とは別に不定愁訴や教科書通りでない患者が山ほどくる。外科医などにそんな処理ができるわけもなく、精神科医がどうしようもないのは日々FBに書いているとおりである。それで私は医者の四年目に東洋医学に逃げた。

またこの病院は血液病の患者を多数扱っていた。これも大都会病院では考えられず血液の専門病棟を持っているが、そんなものはなかった。大学病院から血液内科の専門医が一週間に二回来て、カンファレンスをして治療方針を決め私たちが動いた。血液内科医の人は良かったが無菌室もなく、全員が抗がん剤をやったが全員良くはならなかった。もちろん今は無菌室があろうが良くならないことはわかるが。

私は消化器の癌もたくさん診て(診させられて)血液もたくさん診たが(診させられたが)、抗がん剤や放射線治療で治るわけはないと本当に思った。実際にその病院でもそのあとの病院でも、一件たりと治ったケースを見たことはなく、それは同僚の患者であっても同じであり、他科の患者であっても同じである。東京の有名病院ほどにいかにウソつきでどうしようもないかも骨身にしみて実感した。

私が東洋医学に逃げたのにあるエピソードがある。自殺の患者が来てまさに心肺停止だった。しかし若かったからか一命をとりとめたが、あとで農薬服薬だとわかった。しかし助かった後が問題だった。有機リン=サリン系は重篤な神経障害を起こす。手足が動かなくなってしまったのだ。専門の中毒センターにも問い合わせたが手はないと言われた。リハビリしたがもちろん一切回復しなかった。

家族にも正直に伝えたが、家族はいろいろやってみると言いそれは構わないと伝えた。それから実は少しだけ動くようになった。回復とまでいえないが意味はあることなのだろう。東洋医学的な処置をやったという。私はそこから東洋医学をいろいろ見て、救急は対応できないかもしれないが様々なところで、東洋医学が穴埋めをしてくれるのではないかと考えるようになった。

東洋医学をやった後に五年目の医者として勤務医に戻った。大きな東京の病院だったが東洋医学を勉強しているものなど一人もいない。いろんな患者を上級医から回された。私はその頃は西洋医学の基本方針は従うものの、例えば抗がん剤などはやるかやらないか患者や患者家族に選択してもらっていた。抗がん剤の西洋医学としてのリスクも説明した(この説明さえ今は嘘だったとわかる)。

たったそれだけで8割近い患者や家族は抗がん剤を拒否し、人間らしく死ぬことと体に負荷がかからない方法を選んだ。病院の場合は緩和医療が中心になるが、それでクレームを言われたことは私は一度もなかった。もちろんこの時は抗がん剤や放射線治療を望む人にはそれを提供した。しかしこの病院でもそれをやって治った人を一人も見たことはなく、同僚の患者でもそれを見つけたことはない。

抗がん剤をやって治ったとか言っている唯一無二のケースは、「予防投与」のケースだった。今はもともとやる必要がないとわかるが、これは治ったのではない。手術で臓器を犠牲にしてとり切れただけである。先日の医療研究会でも別の外科医の人が、「自分も治った人は一人も知らない」と述べていた。そんなこんなで私は西洋医学をやるのが嫌になり、東洋医学のクリニックを開業したのである。

今、私は西洋医学を批判し薬害や医原病の専門家になったと思う。代替療法の専門家はたくさんいるが薬害と医原病の専門家はいない。私も代替療法は使うが代替療法はたいした方法論ではない。がんでいうなら抗がん剤や放射線治療よりマシというに過ぎない。病気にならないこと、病気をどうとらえるか、考え方、生き方や死に方にこそ医学不要論の原点がある。医学不要論は代替療法の勧めではない。

そして医学不要論こそ日本における救急医学の充実を求める。市民は嘘の救急医療番組に騙されているだけにすぎない。しかしそのつらさやめんどくささ、日本人のどうしようもないわがままぶりを知っているため、ほぼすべての医者は救急なんてやらない。訴訟になって自分の人生をつぶされるのはまっぴらごめんであり、ある意味当たり前の感情である。医療界とはこんな世界であり患者もそんな人々である。

そんな世界も知らない人々が、ちょっとコメディカルな分野や整体や鍼灸やカイロやカウンセリングなどを勉強し、西洋医学を批判しているさまは滑稽以外の何物でもない。死人を見たこともない輩たちが、やれこれで癌が治る、やれこれで精神病が治る、やれこの食事療法をすれば病気が治るなど、軽い人々を見て嘘八百を並べている。私が虚無主義になるのはこういう流れがあったからなのだと思う。

この記事の批判は好きにコメント欄に書いてもらえばいいと思う(いつもは消すのだが)。ただたまには正直に書いてみたので参考にしてもらえば幸いである。

Fully Shared from Jean Paul S., an all-the-time top curator.

《写真》

この本で、亡くなった人がいる。

法人だ。出版社(オリジナル)の三五館 さんだ。

御愁傷様。(今は別会社から再出版されている。)

*2017年10月5日、創業者から社員一同に「三五館は倒産し、事業も清算する」旨が告げられました。

「三五館が終わる…」

嗚呼、終わることなんてあるのですね。


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