【質問】

人を善人と悪人の二つに分けることはいけないことなのでしょうか。

【回答】

私たちは無意識のうちに、人を善人と悪人とに分けています。

これを「分別心」と言います。

そして「この人は悪い人だ」と決めつけたならば、
その人が悲しむことや苦しむことをしても、
何とも思わずに平気でやってしまうことが出来ます。

例えば、無視をしてきた人には、無視をする。

ここで無視をしたとしても、
「自分は無視をするような悪い奴」とは思わない。

あくまでも、私が相手のことを無視をしたのは、相手が悪いからで、

「私はそんな無視をするような悪い人間ではない」と思っています。

つまり、私が人間だと認めた相手には、相手を傷つけるような悪いことはしない。

だから、私は本来ならば、悪いことをする人間ではないのだが、

相手が私に対して、こんなに悪いことをしてきたから、
その人に対して、仕返しをすることは当然なことであるし、
それは悪いことではないと思っています。

しかし、そうして、一度悪い奴だと決めつけて、その人に酷いことをしてしまうと、
自分は、そんな悪い人間にはなれなくなる。

だから、悪い人間にならないように自分の決めた常識に従い、
悪いことをしないように頑張るようになる。

例えば、
他人から傷つけられて、その人を責めたならば、

自分はそんな他人を傷つけるような悪い人間にはならないように気をつけるようになる。

そして、自分はこんなにも他人を傷つけないように努力しているから、

「悪い人間ではないのだ」と正しい方に自分を置こうとする。

それで自分が正しい方に立つと、安心して、
また悪人を見下して、この人を人間扱いしなくなる。

私たちは、善悪にとらわれます。

そして、自分はいつも善人の側に立って、悪人を見下します。

でも、悪人を見下した分だけ、
自分は悪人の側には立てなくなります。

悪人の側に立ったら、自分が悪人に対して発信して、向けていた感情が、
すべて刃となって自分に向けられます。

それはもう自分は人間ではない、
存在してはならないような存在に思えてしまい、

自分の存在が消えてなくなりたいと思って、死にたくなる。

だから、私たちは他人を簡単に「悪人」と決めつけ、否定しても、
自分は「悪人」とは認められない。

どこどこまでも「善人」になろうとして、他人と比べて上に立とうとする。

私たちは、人を善悪に分ける所から、苦しみが生み出されます。

悪人にならない為に頑張り続けながら、他人と比べては自分が劣っていると、
「自分はダメな人間ではないか」と思って苦しむ。

善悪から離れることが出来たら、苦しみや不安から離れて、穏やかな心になれるのですが。

その善悪から離れた世界に出ること。

それが仏教でいう「悟りを開く」ということなのです。

唯識教学では、通達位〖初地〗で得られた智慧を「無分別智」といます。

分別心がなくなり、無分別智となるのです。
(詳しく言いますと、末那識の一部が平等性智に転じ、意識の一部が妙観察智となったのが、初地です)

【唯識と浄土真宗】①八識と四智【転識得智】〖妙観平等・初地分得〗【令和4年4月26日】
🌎️YouTube で見る🟥https://youtu.be/qRodY70RaKw
     〖終了〗

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