〖レジメ2️⃣資料〗
"②遍依円の三性〖石ころ・鉱石・金【氷・水・水蒸気】〗【令和4年9月23日】

🟦仏道とは「仮有(けう)の世界」から、「実有(じつう)の世界」へ、導く教えといえます。
 
🔷この「遍依円の三性説」は、別の観点から、「中道」を新たに論理付けしていくために打ち出した主張である、と言えます。
 
なぜなら、遍計所執性は、「無」でありますから、「非有」であります。
 
依他起性と、円成実性とは、「有」でありますから、「非無」であります。
 
それで、遍依円の三性を合わせて、存在全体は「非有非無」という中道が成立します。
 
🔶更に唯識教学は、中道の教えを心の中の事象で説明しようとしたことに、この三性説の大きな意義があります。
 
自分の心の中に沈潜して、その中の現象を静かに観察し、分析してみるならば、
 
🔷「私達が心の外に投げ出したもの、投影したものは、決して実体はない、存在しない」と言えます。
 
しかし、少なくても自分の心は「仮有」としてあるのですから、決して、この世は全面的に「無」ではありません。
 
🔶更に自分の心のあり方の虚妄性をどんどんと、なくしていくならば、
 
すなわち自己のあり方を、ますます本来的なものにしていくならば、
 
段々と私達は、真如へと近づいていくことが出来ます。
 
🔷即ち「仮有」から「実有」へと変化していくことになります。
 
仏道の実践、ヨーガ(止観)の実践を通して、心が最終的には「実有」というものに成り切り、
真の意味での「非無」に到るのである、と唯識教学は主張するのです。
 
🔶このように「非無」は、一義的な「非無」ではありません。
 
「非無」は、「仮有(けう)」から「実有(じつう)」に到る過程の全てについて言える「非無」です。
 
🟦例えば、真剣を鋼(はがね)の段階で打って、叩き出す場合には、まだ本当の真剣ではありませんが、少しずつ、鋼(はがね)は磨かれていきます。
 
この過程が、依他起性としての自己の心に例えられます。
 
そして、最終的に叩き伸ばした鋼(はがね)を刀に磨き出して、そして、出来上がった真剣、これが、円成実性になります。
 
🔶考えてみるならば、自分の心も一つの鋼のようなものであるといえます。
 
どんどん、叩き出して鍛えていくならば、ますます精練されていくのです。
 
🔷精進(しょうじん)という言葉の原語は、ヴィーリャで「頑張る」「努力する」という意味ですが、
 
これに対して、経典の翻訳者は中々、よい訳をつけたものだと思われます。
 
「精(しょう)」は、「どんどんと、きめ細かにしていく」という意味です。
 
🔶昔は、各地に精米所というのがありましたが、ちょうど、お米のように心をきめ細かに精練して、ますます真理に進んでいく、というのが、精進の意味なのです。
 
つまり、心を清らかにしていく、というのが精進であり、
仏道修行を完成させるまで、諦めずに、果たし遂げるまで、努力するのが精進であります。
 
🔷このように自己の心を精練していくならば、唯識教学では、
「仮有」から「実有」に到ることが出来ると教えます。
 
私達は、心の働き(分別)によって、日々、日常生活を営んでいます。
 
🟧その心というものを、水と氷と水蒸気とに例えてみると、少しは分かりやすくなるかと思います。
 
水は冷えれば、やがて氷になりますが、水は火に熱せられますと、水蒸気になります。
 
心に条件が付加されると、形態がガラリと変わります。
 
すなわち、言葉と煩悩によって、色付けされた勝手な自分の思い込みは、心を凝り固まらせて、氷のようなものに、すなわち「遍計所執性」に変化させてしまいます。
 
🔶一方、煩悩を消滅させる火(無分別智の火)が起こるならば、水が空中に霧散するように、心を「空」にしてしまいます。
 
🟥氷から水、そして水から、水蒸気へと変化するように。
 
私達も、遍計所執性から、早く脱出をして、依他起性に入り、そして最終的には、円成実性となるところまで、つまり、真如に到るところまで、私達は進ませて頂くのです。
 
🔷遍計所執性の世界に生きる私達は、「自分が生きているのだ」と考えて、我他此彼の苦しみの世界に住んでいます。
 
🔶そこから、先ずは依他起性の世界に移り住み、「自分は生かされているのだ」という事実を知り、
そして最終的には、あるがままにある円成実性の世界に、すなわち真如の世界に帰りつきたいものです。

🟩仏教では、真如に「離言真如(りごんしんにょ)」と「依言真如(えごんしんにょ)」が教えられます。
 
真如の体は、本来、言葉には出来ず、心に思うことも出来ないので、これを離言真如と言います。
 
言葉を仮設することで、その相を表すのを依言真如と言います。
 
🔷これは『大乗起信論』に出ています。
 
真如は言葉で表現が出来ないのですが、言葉に依(よ)らねば、伝えることが出来ないので、言葉で真如を表すしか方法がありません。
 
だから、言葉に依る、真如「依言真如(えごんしんにょ)」と言うのです。
 
🟩お釈迦様には、次のような話が伝えられています。
 
「維摩の一黙、雷の如し」
ある時、お釈迦様が、お弟子たちに、真如とは、いかなるものかを尋ねられました。
 
お釈迦様のお弟子の中で、特に優れたお弟子が十人おられました。
これを「釈迦の十大弟子」といわれます。
 
その中で、第一といわれる舎利弗(しゃりほつ)が、答えました。
 
⏹️流暢に説明をして、
「真如とは 若い女の乱れ髪 言うに言われず(結うに結われず) 説くに説かれず(解くに解かれず)」との解説に、聞く者は、「さすがは智慧第一の舎利弗だ」と感心しました。
 
その後、お釈迦様は、側にいた維摩居士(ゆいまこじ)に、同じ質問をされました。
 
維摩は黙っています。
 
周囲の人たちは、先に舎利弗が、あんな説明をされたから、さすがの維摩も、何も言えなくなったのではないか」と思いました。
 
その時、お釈迦様は「維摩、それでよい」と仰いました。
 
それを聞いた周囲の人たちは、「えぇ!」と驚いた話から「維摩の一黙、雷の如し」と言われます。
 
親鸞の教行信証には『不可称・不可説・不可思議』という言葉があります。
 
不可称(ふかしょう)言葉で表すことが出来ない。
不可説(ふかせつ)説明することが出来ない。
不可思議(ふかしぎ)想像することが出来ない。
 
仏教には、大変深遠なこと「言語道断」なことが教えられています。
それを人に伝えるには、言葉で表すしかないので、言葉を尽くして、何としても伝えようとされているのが、仏教の講師の本当の苦労なのです。
🟥https://youtu.be/_KgddHbmKfE
      〖終了〗

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