【質問】

親鸞聖人は『御消息(お手紙)』に煩悩(我執)は少しずつ減っていく、薄くなっていくと教えておられると聞きますが、その根拠を提示してください。
 
【回答】

信心決定までの道程【唯識学では資糧位】を親鸞聖人は『御消息(お手紙)』に煩悩(我執)は少しずつ減っていく、薄くなっていくと教えておられます。
 
「元は無明の酒に酔いて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好み召しあうて候ひつるに、
仏の誓いを聞き始めしより、無明の酔いも、やうやう少しずつ覚め、三毒をも少しづつ好まずして」
 
以下、前後の文章も含めて、意訳で紹介させて頂きます。

「そもそも皆さんは、 かつては阿弥陀仏の本願も知らず、 その名号を称えることもありませんでしたが、 
 
釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれて、 今は阿弥陀仏の本願を聞き始めるようになられたのです。 
 
以前は、無明の酒に酔って、 貪欲・瞋恚・愚痴の三毒ばかりを好んでおられましたが、 
 
阿弥陀仏の本願を聞き始めてから、 それからは無明の酔いも次第に醒めて、少しずつ三毒も好まないようになり、 阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。
 
ところが、 まだ酔いも醒めていないのに、重ねて酒を勧めて、 また毒も消えていないのに、更に毒を勧めるようなことは、 実に嘆かわしいことです。 
 
「煩悩を備えた身であるから」といって、 心にまかせてしてはならないことをして、 
言ってはならないことを言い、
思ってはならないことを思い、 
「どのようにでも、心のままにすればよい」と言いあっている人がいるようですが、 それは何とも心の痛むことです。 
 
それは酔いも醒(さ)めない内に、更に酒を勧め、 毒も消えない内に、ますます毒を勧めるようなものです。 
 
「薬があるから、好き好んで毒を飲みなさい」というようなことはあってはならないと思います。 
 
阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて、 念仏するようになってから、久しい人々は、 必ずや後に迷いの世界に生れることを厭(いと)い、 わが身の悪を厭い捨てようとする姿が現れてくる筈だと思います。
 
はじめて阿弥陀仏の本願を聞いて、 自らの悪い行いや悪い心を思い知り、
 「このような私では、とても往生することなど出来ないであろう」という人にこそ、 煩悩を備えた身であるから、 阿弥陀仏は、
「私達の心の善し悪しを問うことなく、 間違いなく浄土に迎えて下さるのだ」と説かれるのです。 
 
このように聞いて、阿弥陀仏を信じようと思う心が深くなると、
心から、この身を厭い、 迷いの世界を生まれ変わり、死に変わりし続けることをも悲しんで、 
深く阿弥陀仏の本願を信じて、 その名号を進んで称えるようになるのです。 
 
以前は、心にまかせて悪い心を起して、悪い行いをしていたけれども、 「今はそのような心を捨てよう」とお思いになることこそ、 
「この迷いの世界を厭う姿であろう」と思います。 
 
また、
覚如上人の『執持鈔』(4ヵ条目)、
蓮如上人の『正信偈大意(光明名号顕因縁の解説にて)』には、

教えの光にあった人は、煩悩の闇が薄くなっていく道程を通って救われることを示されました。
 
「また教えて頂きます。光明名号の因縁ということがあります。
弥陀如来の四十八願の中に第十二の願は「わが光り際(きわ)なからん」と誓っておられます。
 
これは即ち、念仏の衆生を摂取のためであります。
 
阿弥陀仏の本願は、既に成就されて、あまねく無碍の光りをもって十方微塵世界を照らして下さり、
衆生の煩悩悪業に満ちた私達を長い時間、照らして下さいます。
 
されば、この光りの教えの縁にあうことの出来た衆生は、

段々と少しずつ、ようやく無明の昏闇(煩悩)が薄くなってきて、
宿善の種が萌(きざ)す時(宿善開発)に、
 
まさしく報土に生まれられる第十八の念仏往生の願因の名号を聞くことが出来るのです。
     【終了】
 


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