【質問】
「善悪の基準」を仏教では、どのように教えているのでしょうか?
【回答】
幸せになるためには、善悪の判別が、とても大切です。
釈尊は、二千六百年前に、あっさりと善悪を見極めておられました。
他の誰も思いつかないことを、しかも「言われてみればそうだ。それ以外にない」というほど、簡単で明快な、コロンブスの卵のような善悪の基準を、釈尊が教えていますので、皆様に紹介しましょう。
善とは、
「自分にとって利益になることで、相手にとっても利益になることで、しかも周りにとっても利益になること」です。
自分と相手と周りのすべてにとって、利益にならないと駄目です。
どれか一者でも不利益になるなら、それは善ではありません。
自分と相手と周りの三者の全部にとって利益になる時だけ、善なのです。
それ以外は悪、少なくとも善とは言えないのです。
ですから、自分を犠牲にしてまで、相手を助けるのは、善とは言えません。
自分が誰かの犠牲になることを厭わないなら、それもありでしょう。
しかし、その場合でも、自分の家族が「そこまで自分や家族を犠牲にしないで下さい」と思っていたら、アウトです。
外部へのボランティアより先に、わが家の平和が保たれているかどうか、
家庭内の三者に利益になるかどうかを調べなければいけません。
ボランティアに行っても、相手方が必要としているものを自分が提供が出来るかどうか、双方に利益にならないと結構、大変です。
自分がしたいことをしてあげるのではなく、相手がして欲しいことをしてあげるのがコツです。
悪を判断するのは、簡単です。
善の逆なのです。
悪とは、
「自分にとって利益にならないこと、あるいは相手にとって利益にならないこと、もしくは周りの誰かにとって利益にならないこと」です。
三者の、どれか一つでも嫌で困るならば、それだけで善ではない、悪なのです。
万引きは、自分は良いかも知れませんが、お店が困ります。
ゴミのポイ捨ては、環境が困り、周りの人々が困ります。
善と悪とを見極めれば、
そして悪は行わないようにして、善に励むようにすれば、必ず幸せになれます。
「善因悪果」「悪因苦果」です。
【善悪の定義】を唯識学では、以下のように定義します。
🟠善とは、
此世(しせ)他世(たせ)に自他に順益(じゅんやく)するが故に、善と名づける。
🟠悪とは、
此世(しせ)他世(たせ)に自他に違損(いそん)するが故に、悪と名づける。
【成(じょう)唯識論】
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