【二座目〖レジメ〗】

「臨終には三段階ある」と仏教で教えられている。

1.心明了位の臨終
2.身体愛法位の臨終
3.心不明了位の臨終

第一段階・心明了位の臨終

心明了位とは、
心がまだ明るい時に死んでしまう臨終。前五識の臨終。

段階としては、まず前五識、私たちの感覚。この五つの心がまず死んでいく。
まず感覚が機能を失う。
しかし、まだ心は明るい。
心とは意識です。
まだ意識が明るい状態で終わる

まず前五識が死んでいく。
目が見えなくなる、耳が聞こえなくなる。
匂いの感覚、舌の感覚、体も熱い寒いと受け止める感覚がなくなる。

だから臨終に子供が来ても分からない。
よく枕元で「お母さん僕よ、わかる」と大きな声を出す人がある。

それは耳が聞こえなくなるから。
大きな声を出して分からせようとする。
または目の前に顔を出して。
目も見えなくなるので、それで臨終のお母さんの顔に自分の顔を近づけようとする。

本人からすれば、死にかけの人は大きな声で叫んでも、誰かがどこかで確か自分の息子ではないかな、でもハッキリしない。

また目の前に顔を寄せられてもハッキリしない。
何とか見ようとする。無理してみようとすると、目がギョロッとする場合がある。
びっくりしますけれど。
やがて前五識が死んでいく。

次の臨終が、第二段階・身体愛法位の臨終。

体の機能を失い、そしてこの世のすべての物に執着を起こして、大変な苦しみを受ける。意識の臨終。

この時が非常に辛い。愛とは執着。

法とは、三つに分けるなら、三愛。
「この時に三愛が起きる」と教えられます。
『往生要集』三愛が出ています。

苦しいのは身体愛法位の臨終。
この時が大変な苦しみなのです。
愛とは執着。大変な執着が起きてくる。
これを三つに分けて仏教では教える。

【境界愛】
自分の境界にあるものに執着する。妻子や財宝に執着する。
あなたの境界にあるものに対する執着。

【自体愛】
自分の肉体に対する強い執着。
この肉体とも離れる。肉体に対する苦しみ。

【当生愛】
当に未来に生まれる処に対する執着。これは後生暗い心です。
死後、未来に対して起こす愛着心のこと。
「死んだら、どうなるか分からない不安」
まさに未来に生まれるところについて起こす執着です。

「後生は、どうなるか分からない苦しみ」

三愛は言葉を変えれば、
死の苦しみを三つに分けた言い方とも言えます。

肉体の苦しみも辛いが、それとは桁違いの苦しみが当生愛です。

多くの人は、これが分からない。
「死がなぜ怖いのか」というと、多くの人は、この世の境界のものと離れるから、別れるからとか。
肉体の苦痛があるからと思うが。

もしも死の苦しみが境界愛、自体愛の苦しみなら、現在も解決できる。 

極端な言い方になりますが、
もし境界愛が苦しみなら、乞食になればよい。

乞食はお金も何もないから、これだけなら、安らかな死に方かも。
お金がたくさんある人ほど執着が強くなって苦しむ。

また自体愛も、モルヒネを打てば、安らかに死ねます。

死んだ後が、一切ないのなら、後生の苦しみがないのなら、私たちの死の苦しみ解決できる。

乞食になって、モルヒネを打てばよいことになる。

人生の目的は乞食になることだ?
モルヒネを打つことだ?

「おお良いことを聞いた」とは誰も思わない。ちょっと変だなと思う。
いくら乞食になっても、モルヒネを打っても不安はなくならない。
それは死んだ後がハッキリしないから。

この当生愛、後生暗い心を解決しなければ、もう幸せにはなれない。

そして第三段階の臨終を迎える。
心不明了位の臨終。

意識が死んでいるから、心不明了位。
この時に阿頼耶識が転生するといわれます。

転生するのは阿頼耶識ですが、末那識を含めてのことです。

末那識がなくなるなら、悪の根元がなくなることになる。

阿頼耶識は死なない。転生する。
前五識や意識はなくなります。
末那識、阿頼耶識は死ぬことはありません。

なくなることはありませんから、阿頼耶識が転生する。
意識がないから、心が明るくない。そして後生と旅立っていく。
こういう順番を経る。

時間がかかる人もあれば、すぐにいく人もある。
また1と2が逆転することがある。その時が恐ろしい。

10人中何人か安らかな臨終ですという人があるが、それはこう言う時。

普通は、まず前五識が死ぬから、外に苦しみが表せない。
だから、外から見れば、安らかに見えるだけで、本人は、七転八倒の苦しみを受けている。

しかし、中には大変な苦しみを表面に出して、もがいて死んでいく人もあるのは、これは1番と2番が逆転する場合があるから。

前五識が死んでいないのに意識が臨終を迎え、三愛が起きる。
「火の車、作る大工はなけれども、おのが作りて、おのが乗りゆく」
火の車が来た、火の車が来たと叫ぶ。
ヴォルテールのように、
「それ、そこに悪魔がいる。私を連れにやってきた。あれ、奈落が見えてきた。恐ろしい恐ろしい、誰か助けてくれ」と言ったのは、まだ前五識が生きていたから、
苦しみを外に表せるから、ああいう死に方になる。

実際は、ああいう死に方なのです。
それを外に顕わす術があるかないかの違いですから、
どんな人も執着、罪悪を減らさない限り、死の苦しみは逃れられない。

見事に論理的に仏教では、臨終の段階について教えられている。

これが臨終の三段階です。

🟠三種の愛心
さんしゅのあいしん

境界愛きょうがい-あい
自体愛じたい-あい・
当生愛とうしょう-あい

三種類の愛心(執着心)のこと。

人の臨終の際に起こす三つの執着の心のこと。
家族や財産などへの愛着である境界愛。
自分自身の存在そのものに対する執着である自体愛。
自身は死後どのようになるのかと憂える当生愛を、三愛という。

このような衆生の三種の愛心の障りを、仏は安然として見ていられないので、臨終に来迎するとされた。(要集 P.1054)

境界愛きょうがい-あい・自体愛じたい-あい・当生愛とうしょう-あいの三種類の愛心(執着心)のこと。
     【終了】


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