「一人一人の「業」は違う」

 (ある時の話に、先生いわく――)お経の中に、おもしろい話がある。

 ある日、舎利弗が、釈尊に向かって、「わたしは、今、センタク屋と、カジ屋に仏法の話をしていますが、どうも二人とも、さっぱり法が深まりません」という。

釈尊は、「一体、どういう説き方をしているのか」と聞かれると、

舎利弗が答えて、「わたしは、センタク屋に向かって、数息観(無常観)を説き、カジ屋に向かって、不浄観(罪悪観)を説いています」と言うと、

釈尊は、これに答えて、「それは、全く逆ではないか。センタク屋は、毎日、きたなくなった着物を洗って暮らしているのだから、不浄観を教えねばならぬ。またカジ屋は、毎日、フイゴを使って火を起こしながら暮らしているのだから、数息観を説かねばならぬ」と言われたので、

その通りにすると、二人とも法が進んで、サトリを開くことができたと書かれている。

――これは、何かのお経に、ごく簡単に書かれている話だから、うっかりすると、見すごしてしまいそうだが、「人を見て、法を説け」という釈尊の態度が、よくあらわれであると思う。

 都会人に、米つくりの話をしてもわからぬだろうし、田舎の人に、都会生活の悩みを諮ってもわからぬだろう。男の世界、女の世界、結婚した者と、せぬ者、若者と老人……等々。

皆、それぞれ違っているはずだ。人間は、本質的には、みな同じであっても、それぞれに、住んでいる業の世界が違っているからだ。

 法の求め方についても、その人、その人によって違っている。職業によっても違うだろう。年齢によっても、住む所によっても違うだろう。

――だから、仏法を語る場合には、その人、その人の生活に沿って、気持ちに即して、法を語らねばならぬ。

このことは、言うはやすくして、実際には、極めてむずかしいことだが、また、非常に大事なことだ。

人間は、みな同じではあるにしても、その人その人の、生いたち、境遇、職業、教養などの点、非常な開きがあることを知らねばならぬ。

(吾勝常晃著作『伊藤先生の言葉』(華光会、1979年))