【一座目〖レジメ〗】

お釈迦様(ブッダ)は、人間の心理を詳しく説かれました。
大きく8つに分けて「八識(はっしき)」と説かれています。

眼識(げんしき)
耳識(にしき)
鼻識(びしき)
舌識(ぜっしき)
身識(しんしき)
意識(いしき)
末那識(まなしき)
阿頼耶識(あらやしき)

眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の5つを「前五識(ぜんごしき)」と言います。

意識は、その前五識を統括している心であり、私たちが普段生活をしていて分かるのは、ここまでです。

仏教では、この意識よりも深い心「末那識」「阿頼耶識」があると教えられます。

意識よりも深い心-「無意識」の存在は、精神分析学で有名な心理学者・フロイトによって提唱されました。

その無意識は、とても深い心であり、フロイトは「心とは氷山のようなものである」

氷山は、その大きさの7分の1を海面の上に出して漂うと、心を氷山にたとえて語っています。

氷山で海面の上に出ている部分は全体の大きさのわずか、7分の1であり、ほとんどが沈んでいて見えません。

人間の心も、意識は氷山の一角に過ぎず、その下には更なるなる深い心がある、とフロイトは推察しているのです。

このフロイトの無意識の提唱は「20世紀の大発見」といわれていますが、
実は仏教では2600年前に、意識より深い心の存在が教えられていたのです。

それが「末那識」と「阿頼耶識」です。

「末那識」は自我執着心をいいます。
「あれは自分のものだ。誰にも渡さない」と私たちには物や人への執着があり、なくなりません。

「死にたくない」という思いも、この世の中に対する執着です。

そして「阿頼耶識」は、仏教で説かれる最も深い心であり、「永遠の生命」といわれています。

「阿頼耶」はサンスクリット語の「アラヤ」に漢字をあてたもので、本来の意味は「蔵」です。

蔵というのは、大切なものを保管しておくところです。

蔵のような心が阿頼耶識ですので、「蔵識(くらしき、ぞうしき)」ともいわれます。

「阿頼耶識」に蓄えられるもの、何が保管されているのかというと、「カルマ」です。

「カルマ」は「業(ごう)」と訳され、意味は「行為」です。

私たちの行為は「カルマ」となって阿頼耶識に蓄えられる、と教えられます。

カルマは、行為を引き起こすまでは、決して消えることはありません。これを業力不滅といいます。

阿頼耶識には日々、無数のカルマがおさまり続けているので、
カルマは不滅であり、そのカルマがおさまっている阿頼耶識も不滅、永遠の生命なのです。

現代の心理学よりも、更に深く人間の心が洞察されている仏教心理学を「唯識学」と言います。
     【終了】


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