人生には一人一人乗り越えなければならない課題がある。

それを教えてくれるのがぜんちしきの直の説法であり、その課題をいつも教えてくれるのが聴聞です。

私たちはどんなに自分の課題を教えてもらったとしても、忘れてしまう。だから、定期的に聴聞をして、自分の課題を教えてもらわなければなりません。

不思議なことに私は説法していると、どんな質問を受けたとしても、それについて話をすると、その人の課題についての話になります。

意識して課題について話そうと思わなくても自然と、話をしてゆくと、その人の課題についての話になる。

そういう意味で、その人その人で、いつも同じ話になることが多いように感じます。

ある人は自分の課題を避けて、これなら課題の話にならないだろうと質問をしても、切り口は違うだけでやっぱりその人の課題についての話に結論はなる。

蓮如上人は水よく石を穿つと言われたが、仏法というのは、自分の課題について同じ話を聞き続けることによって、初めて課題と向き合うことができるように感じます。

だから、仏法は同じ話を聞けと言われるから、何でもかんでも同じ話を何度も聞いたらいいと思う人がいますが、それは間違いで、同じ話と言っても、自分の課題について話を聞かなければ意味がありません。

自分の課題について何度も聞いてゆくから、前もこの課題について話を聞いたなと思って、やっぱり自分の課題から逃げることはできないのだなと知らされてゆきます。

そして、課題と向き合って、初めて私たちは恐れを感じ、進んでゆけるのかなという思いになります。

仏法は善知識がいなければ、求道はできません。

どんなに課題から逃げていても、最後まで諦めることなく課題と向き合うことを教えてくれる先生がいなければ、私たちは課題と向き合うことができないからです。

課題と向き合って、それを乗り越えた時に人間的に成長する。

自分はこの為に生きているのだと感じることができます。

人生にはやらなければならないことがある。それを教えてくれるのが善知識なんだと思いました。

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