【2月18日(金曜日)】
岡崎市福岡町にて聴聞しました。
以下、簡単な聴聞メモです。
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【一座目】
【質問】

なぜ五逆罪は、無間地獄に堕ちる罪なのか。

【回答】

五逆罪は、無間地獄に堕ちる業と教えられます。

この世の苦しみを一滴の水とすれば、無間地獄の苦しみは大海の水
の如しと説かれる。

五逆罪とは、親殺しのこと。

逆とは?
自分を不幸にする人には、優しくする。逆に自分を幸せにしてくれる人には、冷たく当たる。

幸せと逆の方向に進む業を「逆」という。

この殺しは、殺生のことで、その人の存在を否定することを殺生という。
親の存在を否定することが、殺生。

親とは、私のことを最後まで見捨てない人を親という。

この五逆罪の人は、親の都合がよい時は優しくされて育った。
しかし、親の都合が悪くなると、見捨てられる。

親の思い通りになると、よしよしとされて、親の思い通りにならないと切り捨てられる。

だから、子供としては、親のご機嫌をうかがって、顔色を観るように、観るようになる。

そういう人にとって、一番怖いことは何か?

五逆罪は、いつも冷たい訳でない。親の思い通りになっている時は、親の都合の良い時は自分に優しい、優しくしてくれる。

ところが、親の思い通りにならないと、冷たくする。親が都合が悪くなると急に冷たくなる。

だから、子供はいつも笑顔でいるように、いつも心がけるようになる。

ここで親殺しの親とは、私の存在を決して見捨てない人のこと。

そういう人に対して、その人の存在を否定したくなる。

では、何で親を否定したくなるのか?

五逆罪の人とは、自分を見捨ててくる親によって育てられた人のこと。

だから、親に対しても、信用していない。何で?

自分を見捨ててこないから、親殺しをする。見捨てて欲しい?

見捨てられないように、良い顔をする。

でも私には、良い顔が出来る時と出来ない時がある。

簡単に見捨てるとは、自分の中に都合の悪い部分が見えた時に、「そういう私は存在しない」と思いたいし、思える。

自分でも自分を見捨てているから、「都合の悪いものは、自分にはない」ものとして生きていける。

見捨てる前に、自分で自分を見捨てている。

自分の中に「都合の悪い自分は存在していないのだ」と思える。

仏法でいう親に出会うと、都合の悪い時も、自分を見捨てない人が
親(善知識)。

五逆罪の人は、都合の良い自分だけを見て貰いたい。
都合の悪い自分なんて、認めたくはない。

殆どは五逆罪を造っている?
あとは度合い。

都合の悪い自分を見せたら、安心する。都合の悪い自分を見せなくなれるから。

相手に見捨てられたら、「自分には、そういうものはない」と思えるし、見られる。

見捨てられるものが、自分に存在しているか、どうかが問題。

隠れたら、本当の自分は見られなくて済む。

笑顔でおれる時しか、人と会わない。

五逆罪の人は、一見、気を遣って優しいように見える。
五逆罪の人は、五逆罪の人が好きになる。「いつもこういう人なんだ」と思われるから。

しかし、感情が出てくると、
「こんなもの、見られたくない」と思うけど、親はちゃんと見てくれるので「見捨ててくれてら、楽になる」「見られなくて済んだ」

都合の悪い自分はないことに出来る。

なのに親は見捨てて来ない。
自分を見捨てて来ない親を、
「あんたのせいで、こういう醜いものが自分にあるのが見えるではないか」

見捨ててもらうために、やる。

「あなたも、私を見捨てなさいよ。見捨ててくれたら、私には醜いものは自分にない」と思えるので、取り繕って、他の人にも平気で会える。

「やっぱり、この人は私を見捨ててくる人だ」と思って、また別な人に変えていく。

要するに、親とは善知識のこと。

無間業とは、都合の悪い部分があって、感情(自己の主体)とリンクしている。

死んだ後に都合の悪い部分が、ずっと見せつけられると、どうします?

都合の悪い自分から逃げたいと思う。逃げるには?
逃げられる。苦しい苦しい苦しいと、受け取れなければ、自分を壊せばいいと思って否定する。。

殺生で親殺しをしたように、見えなくさせればいい。壊してしまえばいい。そうしたら、楽になると思う。

死んでいるのに「死にたい」となる。自分の魂を壊したい。
自分の見えている感情を切り刻んで殺そうとする。殺せる。

その後に無間地獄に堕ちる。

魂をこわしてしまえば、もっと激しい苦しみを受ける。
自分をぶち壊してしまった後には、大きな苦しみが待ち構えている。

私達はそれを一秒でも味わったら、発狂して死んでしまう。

善知識を通して、自分の都合悪い部分を否定するから、無間業。

たとえ善知識を馬鹿にしても、それは大した罪でない。

都合の悪い自分をどうしてもみたくないので、自分で自分を否定する。自分を切り刻んで否定しても、時限爆弾のように、やがて爆発する。

考えることは楽になりたい、楽になりたい心しかない。都合の悪い自分を壊す。

それは自殺をする人も同じ。
都合の悪い自分をみたくないから、人は自殺をする。
しかし、自殺をしても都合の悪い自分はなくならない。

死んだ後も、都合の悪い自分を壊せば、消せば楽になろうとして、ずっと自分を否定をし続ける。

無間地獄に堕ちたら、その後はどんなに後悔しても、無間地獄の寿命はいつ終わるかはない。

永遠に苦しみ続けなければならないのです。

だから、五逆罪は大変恐ろしい罪なのです。
無間地獄は誰がいくのでもなく、自分が引き金を引いて、無間地獄に堕ちていくのです。
     【終了】
https://youtu.be/uH0Ue1DclJk
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【二座目】
【質問】

ブログに「下から上に思いを通すことを覚える」とあったけど、自分は、上から下にしか思いを通すことしか知らない。

【回答】

上からしか、思いを通すことを知らない。それは自分に親がそういうようにしてきたからです。

親は上から下に思いを通してきた。通らないと上から目線で、通そうとしてしまう。

自分は親のやってきたことを見てきたから、親がやってきた同じことを自分もやる。

親の通りに、子供も上から下に思いを通そうとする。

親を見てきて、子供はそれを覚える。
自分が上の立場になると、何でも思いが通せると思う。

子供は親のやっていることを真似るだけ。
親は「自分が上なのに、お前は上から思いを通そうとするのか。お前は下だ、聞く側なんだ」と。

「思いを通すには、上にならないといけない」と思っている。

上から目線で、今までは人に接してきたら、そしたら、親はどうか?

今度は下から上に思いを通していく。

それでも親は親だから、やらないといけないことがある。

子供を上にさせたまま、
「これやってくれないかな?」
下から思いを通していくのです。

ここで初めて、親は下から上に思いを通すことを覚える。

下にさせて、今まで自分は思いを通してきた。親が教育の一環として、「下からスミマセンね」と思いを通していく。

頭を下げて「やってくれないか」
上になった子供は、言うことを聞いてくれる時もあれば、聞いてくれない時もある。

結果的に、やってくれる。

「下から上に思いを通す」ことを覚える。

自分は上であろうと、下であろうと思いを通す仕方を覚える。

下の方が思いが通る。
「これお願い」と言われると、どちらが思いが通るか?

下からの方が思いが通る。
子供が自分でお金を稼げるようになると子供には何一つ、親の思いは通らなくなる。

自分が下になって、思いを通すことを姿で見せることによって、下からでも通せることを学んでもらう。

上とか下とかは、関係ないと分かるので。
自分は下でも、思いは通るので。

断絶しないために、気持ち良く下になってあげる。

自分が下になっても思いを通せる。下になっても関係ないと思えるように。

「何だ、下からでも思いを通せるんだ」

日頃から、下になる訓練をする。

思いを通すことは、お願いペースで、結局、みんな上になりたい。

下から思いを通そうとすると、この世は生きやすくなる。

ある人が上からしか、モノが言えない人がいた。今までは面接で、どこの面接に行っても落とされている。

それは思いを通すためには、我慢したくない、どこへいっても上から目線で接するために落とされてきた。

結局、生きにくい世界になっている。上からしか、思いを通せない。思いを通す方法を知らない。

下からでも、思いを通せることを教えてあげる。

仕事をやりたいけど、ここは申し訳ないけど、下になってお願いします、とお願いする。

上から目線で思いを通そうとすると、「そんなふうにいうならば、あなたは、わが社には要らない」となる。

下から思いを通そうとすると、人間関係も上手く行く。

だから、ブログに書いた。
下から上に思いを通せるように。

生きにくい社会を、生きやすい社会にしていくために。

気持ち良く自分が下になって、
「でも、こういう気持ちがあるんです」
上に思いを伝えつつ、自分の思いを伝えていく。そうすると分かって貰うことが出来る。

心までは、相手はどうしようもない。

「あなたのいうことは、正しい」と思うけど、
「私には、こんな気持ちがありますと言われると上司は思いを通せなくなります。」
    【終了】
https://youtu.be/_HRtboVotcU
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【三座目】
【質問】

自分の心を守るとは?

【回答】

先ず「自分の心」とは何か?
「心」を間違って、聞いている人が結構います。

心とは「この気持ちのことなんだと思っている。
「傷つくことはやりたくない」
この感情が自分だと思ってしまう。

ここでいう自分の心とは、この感情でいう心ではない。

心って何?という話がある。

感情が傷つかないように、傷つかないように、私達は思ってしまう。

「傷つくことはやらないようにすること」と思ってしまう。

心を「ここだ【胸をさして】」と思っている。

「ここが嫌だ」と思うことをやらない方がいいと思ってしまう。

唯識とは何?

この自分とは、見えている世界全てがこころ。それを唯識という。

私達は、肉体の中に魂が宿っている。実際に見ている世界は、いつもいうように、ガンダムでいうと、コックピットからみている世界をわれわれは見ている。

モニターで写し出して、世界を見ている。あたり一面の影像に映し出されている。それが我々のこころ。

自分の心を守るとは、自分が見ている世界が傷つかないようにすること。

たとえば、コップ一つでも、それを乱暴に扱うと、それが自分に跳ね返りますから。

我々は、ガタピシの世界にいるので、相手が他であると思うと、
他は自分でないので、乱暴に扱ってしまう。

「他を傷つけてもいい」と思うのは、「自分を傷つけてもいい」と思う心と一緒。

相手は私の嫌な人だから、傷ついてもいいと思う。

小乗仏教は自利の教えだから、
相手は傷ついてもいいけど、自分を傷つけないようにすることが大切です。

相手は自分だから、暖かい気持ちで接していく。それは自分が幸せになりたいから。

あくまでも、見ている世界は全て自分だから。

見ている世界は全部、自分の心の中に映し出された影像なので、全部、優しく接していく。

今度は「我」を傷つけてもいい、と思ってしまう。
嫌な気持ちを正当化してしまって、自分を傷つけてしまう。

「傷つくことを思って、悪かったね」と自分を癒す。

傷ついたものに対して、責めてしまう、傷つけてしまうことは仕方がないので、癒してあげる。

人を責めるのは、相手を無きものにしたい。

その心は、相手を傷つけること、そのままが自分を傷つけることになる。

自分とは、見えている全ての世界が自分なので、傷つかないようにしていく。

傷つけたいと自分が思ったら、その自分を癒してあげる。
     【終了】
https://youtu.be/JM8GM8AfRgQ

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2440378172765927&id=100003813040959