【質問】
「唯識の因果」に対して、「現実世界の因果」はどうなっているのでしょうか?
【回答】
たとえば、「相手が私を責めてきていると感じた」とします。
この人は責めていないかも知れないが、「私は責められた」と感じた。
自分にこの人と同じ業を持っていたら、自分は相手を責めたくなる。
今まで責めてきているから、逃げる。
私が相手に対して、「責める、逃げる」種蒔きを持っていたら、逃げてしまう。
この人も責められたら、逃げる人。
私は責めてなくても、私が逃げる態度をとったら、相手は私を責めたくなる。
この人が今度、逃げると自分は責めたくなる。
これは自分だけが感じるのでなく、自分と同じ業を持った人は自分と同じことをして来る。
この人は実際に責められると感じているけど、実際に責められている。
「責められた」と感じたら、責めたくなる。
それは自分に同じ業を持っているから。
同じ業を持っていない人は、自分から、離れていく。
同じ業の人だけが、自分の周りに残る。
そうして出来た世界を、「業界(ごうかい)」と言います。
「業界」に住んでいる人達の持っている業を、「共業(ぐうごう)」と言います。
唯識教学では、「共相(ぐうそう)種子(しゅうじ)」と言います。
「共通の相を持った種子」を阿頼耶識に持っている、ということです。
思っていることと、現実が一致する。
「責められている」と自分が感じるだけでなく、実際に相手は自分を責めてくる。
「唯識でない、現実だ」という人がいますが、唯識で感じていることが、やがて現実となる。
私と同じ種蒔きをする人を責めるし、逃げる。
責めたら逃げるし、逃げたら責める。
これは「共業(ぐうごう)」です。
「共相(ぐうそう)種子(しゅうじ)」があるからです。
私の種蒔きが相手の言動となる。
相手によって、起こす言動が違う。
接する相手によって、あらわれてくる業が違う。
それは阿頼耶識にいくつもの業があって、業が引き合う。
相手の言動は、私自身の言動によって変わる。
どう変えたら、いいのか。
責めたら、逃げる。
「私も責めているのだなあ、間違いなく私もやっているのだなあ」と先ずは認めること。
相手から嫌われない努力をするよりも、
相手を嫌いにならないような努力をする。
同じ業を自分自身も持っている。
大小はあるけど、大きい業もあるけど、大きい業は表に出やすい。小さい業は出にくい。
私の運命は先ず、どんな人が私に集まっているかで決まる。
自分の周りに集まっているのは、共業の人が集まっている。
集まらないのは「共業」の人がいないから。
集まっている人によって、運命が生み出されていく。
「共相種子」「共業」
こんな仕打ちを受けているのは、同じ業を持っているから。
周りの人が同じ業によって生み出されている。
何でこんなふうに扱われるのか?
私に集まっているのは、それは、共相種子、共業があるから。
良い種を撒くと、良い業を持った人が自分に自然と集まってくる。
この人の中の悪い業が出てくるとすると、私に対して悪い行いをしてくるとしたら、それはその人に私と同じ業があるから。
私には優しくしないが、あの人に優しくするのは、
あの人には優しい業があるから、優しくする。
私にやって来る結果は、自分にそういう業があるから、と受け止める。
では、どう反省したらよいのか?
相手に見えるものは、自分が持っているし、自分がやっている。
自分と同じ反応をした時に、責める逃げる、これによって現実世界の結果が決まる。
これも因果の道理です。
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