【質問】
親鸞聖人が「宿善(しゅくぜん)まかせ」「宿善が大切である」と述べられた直説をお示し下さい。
【回答】
親鸞聖人は『唯信鈔文意』に以下のように教えて下さっております。
「おおよそ、過去久遠に、三恒河沙(ごうがしゃ)の諸仏の世に出でたまいし御元(みもと)にして、自力の菩提心を発(おこ)しき。
恒沙(ごうじゃ)の善根を修せしめしによりて、今、大願業力に値(もうあ)うことを得たり。
他力の三信心を得たらん人は、ゆめゆめ、余の善根(ぜんごん)を謗(そし)り、
余の仏聖(ぶっしょう)を卑(いや)しくすることなかれ、となり 」と言われました。
これは、信心の行者は阿弥陀仏以外の仏・菩薩を軽蔑したり、
自力の善を謗ってはならないと誠めるために、
『安楽集』に引用された『涅槃経』の意(こころ)によって示された教説です。
「私達は、過去世において、ガンジス河の砂の数を、三倍したほどの無数の仏方に逢い、自力の菩提心を発(おこ)して、無数の善根を実践してきた経験を持っている」
「それ故に、今この経に遇(あ)って、本願他力の救いをはからいなく受け入れることの出来る身になったのである」
と説かれています。
「だから、念仏者は自分を育ててくれた仏・菩薩や、自力の菩提心を初めとする諸行を謗るようなことは、絶対にあってはならない」
と言われているのです。
これによれば、親鸞聖人も「宿善」を認めておられたことがわかります。
しかも、その「宿世の善」とは、「聖道門・浄土門に限らず、仏教で説かれている、一切の善なる行為を意味していた」といえましょう。
勿論、それは自力の善に違いありません。
要するに、過去世から現世の信心獲得の直前に至るまでになした、信心を獲るための善き因縁となる一切の善行を「宿善」と呼ばれていたと見るべきでありましょう。
【上記の内容は梯実圓先生のお書き下されたものを元に書かせて頂きました。】
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