■日本の深い闇(1)

児玉 誉士夫(1911年2月18日~1984年1月17日)

日本の右翼運動家として知られる。CIAのエージェントでもあった。同時に「暴力団・錦政会」の顧問という顔も持つ。戦争中、海軍航空本部のために物資調達を行ったが、終戦時までに蓄えた物資を密かに売りさばいて莫大な利益を得る。この資金を使って戦後分裂状態にあった右翼を糾合し、鳩山一郎など大物政治家に政治資金を提供し「政財界の黒幕、フィクサー」と呼ばれた。日韓国交正常化交渉にも関与している。1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり焼香した。

1941年11月、児玉が属した国粋大衆党を主宰する笹川良一の紹介で海軍省の外局である航空本部(本部長は山本五十六)より招かれた。ここから児玉は海軍航空本部のため航空機に必要な物資を調達する。これが後に「児玉機関」と呼ばれる。

1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨プリズンに送られ、1948年12月24日に釈放される。A級戦犯の「異例の釈放」にはもちろん「裏」がある。暗躍したのは「CIA」であり、CIAはこの時同時に「岸信介」と「笹川良一」も釈放している。

岸信介が首相になる際にも児玉はその力を行使し、首相就任後も岸の支援に手を抜かなかった。岸首相の第1次FX問題をめぐる汚職事件を社会党の「今澄勇」が追及していた時には、児玉は今澄を自身の私邸に二度も呼び出し、追及をやめるように忠告する。

「いくら児玉先生の御忠告とは言え、この件に目をつぶるわけにはいきません。」

「そうか・・それは残念だな・・・」

児玉はそう呟くと数枚の書類を今澄の前に置いた。

「こ・・これは・・・!」

それは今澄の「身上調書」だった。そこには今澄の政治資金の出所とその金額。使っている料理屋、付き合っている女の名前などが全て書かれていた。児玉が所有する「東京スポーツ社」の記者を使って調査したのだ。これが「暴力右翼」のやり方である。

(数字=11・14のペアに関しては後日、解説します)

----------

■日本の深い闇 (2)

笹川 良一(1899年5月4日~1995年7月18日)

大正・昭和時代の日本の政治家、社会奉仕活動家。国粋大衆党総裁、国際勝共連合名誉会長、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会(のちの公益財団法人日本財団)会長、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。

第二次世界大戦後は、連合国によりA級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈放される。戦争に対して慎重であり、東條内閣の政策に反対の姿勢であったことが証明されたことなどから有罪認定はされていない。この獄中時代に同じA級戦犯容疑者として収監されていた「岸信介」と知り合う。このことが日本のエスタブリッシュメント人脈との交流に繋がったと言われている。

出所後、1954年に韓国で発足したアジア人民反共同盟(APACL、のちのアジア・太平洋反共同盟)と、1966年に発足した世界反共連盟(WACL)を中華民国の蔣介石総統や谷正綱、元部下の児玉誉士夫らと共に設立した。(岸信介は出所後に「日本再建連盟」を結成して会長におさまり、憲法改正と反共政策を提唱している。)

(笹川は)統一教会とはある時期まで協力関係にあり、1963年(昭和38年)には、統一教会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6月4日の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一教会が1968年(昭和43年)に結成した反共の政治団体「国際勝共連合」では、結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、文鮮明との関係が悪化したためか、1972年(昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

国際勝共連合
世界基督教統一神霊協会(統一教会)の教祖、文鮮明が1968年1月13日に韓国で、同年4月、日本で創設した。日本の初代会長は「統一協会」の会長でもあった久保木修己。名誉会長は笹川良一、顧問団に小川半次、大坪保雄、辻寛一、千葉三郎、玉置和郎、源田実らがいた。

日本統一教会
1958年、当時まだ国交のなかった日本での伝道のため、崔奉春(日本名:西川勝)を密入国させ、1959年10月に日本統一教会(日本統一協会)を立ち上げ、1964年には東京都知事の認証で宗教法人となっている。支部の第一号は当時「岸信介」の私邸の敷地内に建てられた。 

(韓国との国交正常化に児玉誉士夫が関与していることに留意)

統一教会はCIA直属の組織であり、米国内では保守系新聞『ワシントン・タイムズ』を発行。政治的に保守政党である共和党を一貫してバックアップしたほか、レーガン・ブッシュ親子などを支援し、親密な関係を築いてきた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

笹川良一 資料

巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与。モーターボート競走の収益金で造船の振興をすすめ、更に福祉方面の公共事業を助成する財団法人日本船舶振興会(のちの公益財団法人日本財団)を創設した。

株式取引に長け、姪婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して事態を乗り切ることに成功している。1974年(昭和49年)、アメリカのタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」と答えている。またマスコミからは、ファシスト、右翼、また政財界の黒幕として扱われ、「右翼のドン」と呼ばれた。CIAエージェントであったとも報じられている。

国内に比べると海外では、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中には第39代アメリカ大統領のジミー・カーター、実業家ジョン・ロックフェラー等がいる。

----------

■日本の深い闇 (3)

岸 信介(1896年11月13日~1987年8月7日)

日本の政治家、官僚。旧姓佐藤(さとう)。満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第56・57代)、皇學館大学総長 (第2代) などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。

1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』に署名。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。1943年(昭和18年)、商工大臣として経団連の前身となる商工経済会設置法を成立させた。

1945年(昭和20年)8月15日に戦争が終結した後故郷の山口市に帰郷するが、軍需次官などを勤めた経歴が祟り、日本を占領下に置いた連合国軍からA級戦犯被疑者として9月15日に逮捕され、東京の巣鴨拘置所へ拘置された。

岸が巣鴨プリズンへ留置される前に、天照皇大神宮教の教祖・北村サヨは「心配せんでもええ。岸はいずれ首相になる。」と予言していったという。北村サヨはその後も岸を訪れており、北村の葬儀には岸も駆けつけている。

東條ら7名のA級戦犯が処刑された翌日の1948年(昭和23年)12月24日、岸は不起訴となり放免された。ただし、多くの戦争指導者同様、公職追放の身のままであり、表立って政治活動をすることは不可能なままであった。

(中略)

1958年(昭和33年)4月25日、衆議院を解散した。5月22日の総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣が発足した。

岸は正力松太郎などとともにアメリカ中央情報局(CIA)から資金提供を受けていたとされる。岸に与えられたコードネームは明かされていない。2007年に米国務省が日本を反共の砦とするべく岸信介内閣、池田勇人内閣および旧社会党右派を通じ、秘密資金を提供し秘密工作を行い日本政界に対し内政干渉していたことを公式に認めている。

国際勝共連合を通じて岸と「統一教会教祖・文鮮明」との交遊は晩年まで続いた。1974年(昭和49年)5月7日、東京の帝国ホテルで開催された文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」では、岸が名誉実行委員長となっている。1984年(昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際、米国で脱税被疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送っている。

東京都渋谷区南平台(地区は松涛)の岸邸隣に世界基督教統一神霊協会(統一教会)があり、岸も、統一教会本部やその関連団体「国際勝共連合」本部に足を運んだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

資料

2021年9月。安倍晋三前首相が12日に行われた統一教会(家庭連合/現名称・天の父母様聖会 世界平和統一家庭連合=UPF)主催の大規模イベントでリモート演説を行った。安倍氏は「今日に至るまでUPFとともに世界各地の紛争の解決、とりわけ朝鮮半島の平和的統一に向けて努力されてきた韓鶴子総裁を始め皆様に敬意を表します」と語った。

----------

日本の深い闇 (4)

中間分析

1)児玉誉士夫
2)笹川良一
3)岸信介

3名の共通項は「CIAエージェント」である。「CIA=米国・中央情報局」は他の先進国の諜報機関と同じく、本来は「戦争準備・調査機関」として機能する組織である。つまり戦争を始める際に、事前に敵国の戦力や戦術の情報を集め分析することを主たる任務とする。しかしこうして省みると戦後の日本の政治権力の裏側に、CIAと統一教会が深く関わっていたことが理解できる。

言うまでもなく「中央情報局」は実務機関であり、意思決定機関ではない。つまり「パシリ」だ。では誰の意思が戦後の日本をコントロールしてきたのか?(説明なしでもわかりますよね?)

岸信介の延長線上には「中曽根康弘」が、そして笹川良一の延長線上には「曽野綾子」がいる。曽野は1995年から2005年まで笹川の組織「日本財団(旧・日本船舶振興会)」の会長を務めている。中曽根はやはりCIAエージェントであり、彼は自身の回想録にそのことをしっかりと明記している。そして中曽根と与えられた任務は「原子力の普及」であり、これに協力したマスメディアの怪物「正力松太郎」もまた、CIAエージェントだった。

次回は中曽根~正力のラインを分析し、日本が原子力政策に突っ走ってゆく様子を傍観してみたいと考えている。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=966205270985132&id=100027870044411