【生贄を捧げる社会】
12月23日の分科会で5歳~11歳の接種の方針も決まったようで、ショックだったんだけど、さらに文科省が「オミクロン株濃厚接触者の受験会場での受験を認めない」という無茶苦茶な方針を打ち出したのがショック。

大人の責任逃れのために、子どもたちに犠牲を強いるくだらない社会になってしまってる。

科学は進歩して、色々な技術ができ文明を築き、生活は便利になったけど、社会という人の集団としてのメンタリティは一向に進歩ができていない氣がする。

それをまじまじと見せつけられるというのは、腹立たしくもあり、また無力感も感じて、なかなかに辛いもんだ。

昔は、川の氾濫を鎮めるため、人身御供が捧げられていたという話もある。古事記の中にも、スサノオとクシナダヒメの一説があり、実際に村の風習として行われていたかもしれない。

今、考えれば、生贄を捧げて川の氾濫を治めるというのは、非人道的なふるまいであるし、非科学的極まりないので、誰もが反対するだろう。

しかし、令和の世になっても、それがまかり通っているのである。

そもそもの新型コロナとPCR検査の問題があり、陽性者=感染者でもない。陽性者ですらない高校生を受験不可とは、正氣の沙汰ではない。

飛行機に乗ってそのうちの誰かが陽性になったらアウト、家族が職場で濃厚接触者に認定されたらその家の高校生はアウト。

どうしちまったんだ、文科省。政府はどういうつもりだろう。

さらに、先日の分科会で5-11歳の子どもたちへの接種がどんな理由で決まったのか、氣になって調べてみたけど、完全なる机上の空論のよう。

小児のコロナ感染は、入院例にあっても、30%は無症状。さらに、症状のあるのは、2歳未満と13歳以上、基礎疾患のある子どもで多かったというデータもある。

5-11歳は、発熱の割合も少なく、咳と鼻水が主な症状であることが多い。重症化例も少なく、死亡例もない。

なんで接種が勧められるのか、全くわからない。

んで、ここで出てくるのが、例のやつ。

「50万人死ぬ」の感染症数理モデル、SIRモデル。

その試算によると、5-11歳の子どもたちが接種することで、その年代だけではなく60歳以上の人の感染者、重症者数が減るという結果が導き出されている。

(もちろん、5-11歳の感染者、重症者も減るわけだが、そもそも、そんなに数はいないのである。2年かけても25名)

しかも、5-11歳の子どもたちの5割が打つと、60歳以上で感染者が85%減る、重症者も8割以上減る、という試算を出している。

オミクロン株でてから、感染予防効果なんていよいよ不明なのに、なんでこんな予測が成り立つのかもわからんけど、出てきている。

なんで、そんな結果になるん?

「ワクチン接種後の重症化予防率は90%という値を入れて計算した」、とあるけど、それ、ほんまにあってんのか??

しかも、ワクチン未接種群の重症化割合とかも、怪しくて仕方ない。

●ワクチン未接種群の重症化割合
・0-11歳 0.1%
・12-59歳 1%
・60歳- 10%

としているが、これも無茶苦茶な数字。こんな割合で重症になってたら、とっくに病院パンクしてるやろ。元になった資料をみても、陽性者が母数になっているし、まっとうなデータではない。

さらに言えば、国内で心筋炎や接種後重篤になった10代のデータなど、非常に重要だと思うが、全く出ていない。

副反応についての資料は、ファイザーの治験結果と、米CDCの5歳-11歳の接種後のデータしかなく、国内の副反応疑い報告事例などはなし。

無茶苦茶な推論を重ねて、理屈をなんとかつけて、やる意義を取り繕っているようにしか思えない。

多分、年明けあたりから5-11歳の5割が接種すれば、感染者が激減するとか、お年寄りを守れるとか、テレビで言いそう。

さらに、子どもの感染例(陽性者例)が増加傾向にあること、アメリカでは、5-11歳の死亡例も出ているという資料もあり、接種の方針に舵が切られている。

感染症数理モデルというのは、一般人にとってはブラックボックスであり、ヘンテコ宗教の教義と変わらない。しかも、それが信頼できないのは、この2年間で分かった事実である。

これで、メディアに誘導されて、自分の子どもをコロナから守ろうとして、嬉々として接種させる親御さんがどんどん出てくるんだろうか?

注射を嫌がる子どもを、なだめすかせて、針を刺して薬液を注入し、泣いた後に「よく頑張ったね~」、と看護師さんと母親とで褒めそやすのか、、、、

心筋炎になったら、まだ国が責任をとる可能性はある。けども、その子の生活は苦しくなるだろう。外で思いっきり走ることもできなくなる。

もし、これからの成長発達に異常がおこっても、間違いなく責任を取ってくれる人はいないだろう。それこそ因果関係は絶対に解明できない。

悲惨な物語が必ず増える。

昔行われていた生贄の風習は、それでもまだ、村の存続、共同体の存続という大義名分はあったわけだが、現代は空想の中の危機、演出された恐怖からの脱出であり、

リアルでは、ただただ大人の責任逃れと利権のために、生贄が捧げられるという腐った社会になってしまっている。

いつ目が覚めるのか、、、

※写真に参照リンクあります。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=4967817023250286&id=100000661120222