「一休和尚(一)」

 「七曲り半曲った松を真直に見た者に一貫文の褒美をやる」という立札が紫野の大徳寺から出た。

京都のものは、ご褒美に預かりたいと続々見に来た。縦から見ても横から見ても、屋根に登って見ても、地べたに臥せて見ても、真直見える筈がない。

最後の晩に一人の僧侶が来て「私が真直に見たから、ご褒美をください」と言って来た。

和尚が出てきて、僧侶の顔をじっと見て、「あなたは蓮如さんの弟子でしょう」

「はい、左様でございます」

「それなら表看板ばかり見ないで、裏まで見てください」

裏にはちゃんと、但し蓮如はこの限りに非ず、蓮如さまだけには「やらない」と書いてあった。

他の人たちは、七曲り半も曲っている松を真直ぐに見ようと思っているから、千年経っても真直には見えないのだ、七曲り半曲った松を、七曲り半曲った松だと見たのが正直に真直見たのだ。

真宗の僧侶も、口を開けば素直に聞け聞けと教えているが、素直に聞き得る柄と思っているのかい。これほど海千山千の強情我慢の悪性が、説教聞いたぐらいで素直になれると思っているのかい。

法の鏡に照らし出された姿を見よ、三世の諸仏が呆れて逃げたほどの代物ではないか、久遠劫から曲りたいほど曲った悪性だと、なぜ見せてもらわないのだ。

自分の本性には触れずに、説教を聞きに来たときの有難い感情の涙をこぼしたのを、ありがたい同行のように思い、無我の信者のように心得ているが、それは猫を冠った誤魔化し同行だぞ、千年経ったとて素直になれるものかい。

ねじけ者が、出離の縁あることなしと望みの綱が切れたときが、ねじけ者をねじけ者と素直に見せて貰ったときなのだ。ありがた涙に瞞されて、親さまの狙いの実機を見失うてはならないぞ。

(大沼法龍著作『教訓』(敬行寺、1972年)