平等にものを見ることが出来る。
自分しか見ていなかった、見えなかった私達が平等に分け隔てなく、全てのものをあるがままに見ることが少しずつ出来るようになる。
 
これが「平等性智(びょうどうしょうち)」という働きです。
 
ちなみに「初地(しょじ)」という覚りの体験は、
末那識の一部が、平等性智に変わる体験ですから、

上記の十種の中の一部が自分のものとなります。
 
これを唯識学で、古来、

『妙観(みょうかん)平等、
 初地分得(ぶんとく)』

と伝統的に言い習わされてきました。
 
「初地に至れば、
 意識の一部が妙観察智に変わり、
 末那識の一部が平等性智に変わる」

ということです。
 
親鸞聖人は『教行信証』は、ご自身が
「初地(しょじ)」に至った境地を「大慈悲心、大菩提心なり」と説かれています。

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【質問】

「末那識は悟りを開くと平等性智に変わる」と唯識学では教えられますが、具体的にどのように変わるのでしょうか。

 【回答】

玄奘三蔵は、
「末那識が悟りを開くと、平等性智に変わる」と教えておられます。
 
具体的には、

「十種の平等性を証得する」『仏地経』に説かれていますので、それを引用された『成唯識論』から、簡単に説明させて頂きます。
 
一、「諸相に喜愛する」
 
「諸相」全てのものに対して、「喜愛」ですから、喜びを持つ、全てのものに喜びや愛情、慈愛を持って接する。慈愛を注ぐ思いが平等になるのです。
 
ある人には愛を持つけれども、
ある人には憎しみを持つ。
 そういう差別をする気持ちがなくなって、全てのものに喜びと慈愛を持ち得るようになるのです。
 
 
二、「一切を領受する縁起」
 
一切のものを受け入れる縁起、「一切の現象を受け入れる」という気持ちが備わってくる。
平等に全てのものを受け入れていく。
私達の世界は、縁起の理法によって存在しております。
自分の希望や意思で存在しているのではなく、一つの因縁の法則の中で、私達は存在しております。
 
ですから、本当は全てのものを受け取らなくてはいけないのです。
ですが、私達は自分を軸にして考えますので、一切を受け入れることは、中々出来ません。
 
好きなものは受け入れ、嫌いなものは排除する。
末那識が本当に「空」を体得すれば、すべてのものを受け入れる働きになる、ということです。
 
 
三、「異相を遠離する縁起」
 
「異相」とは、異なった相(すがた)ということですから、嫌いな人もなくなり、全ての生命を平等に観察することが出来るので、
「異相を遠離することが出来る」ということでしょうか。
 
 
四、「弘済する大悲」
 
 「弘済(ぐさい)」とは広く救う、という意味ですから、慈悲の思いが差別なく、生きとし生けるものに注がれて、慈悲深い思いが備わってくる、ということです。
 
 
五、「無待(むたい)の大悲」
 
相手と一体になり、相手に対して、色々な計らいを持たないで、
すべてのものに対して、平等な慈しみを持つこと。
 
 
六、「諸々の有情の楽(ねが)う所に示現する」
 
これは仏様の立場でしょう。
人々の願っているもの、求めているもの、それをよく観察して、そこに姿を現す。
 
私達は、都合の良いものは愛して、都合の悪いものは排除して、依怙贔屓(えこひいき)を離れられませんが、それを乗り超えるのです。
 
 
七、「一切の有情に所説を敬受せらる」
 
平等に一切の人に教えを説き、教えの全てが受け入れられるということでしょう。
 
そうすると、それが尊敬され、受け入れられる。
ですから、「一切の有情に法を説く」ということ。
 
これが平等であり、そうすると、それが尊敬されて、受け入れられるという体験が出来る。
 
 
八、「世間と寂静と皆、一味となる」
 
騒がしい世間と、寂静の仏の世界とが同じ一味となる、同じ味を持つ。
 
人生として、その両方を受け入れることが出来る。これが平等である。
 
 
九、「世間の諸法の苦と楽と一味となる」
 
この世のすべてのものが、苦と楽が一味となる。
「苦しみは嫌だ、楽しみは好きだ」
一方は拒否して、一方は求める、というような考えではなくて、
諸法の苦と楽を一体として、受け入れられるようになる。
 
 
十、「無量の功徳を修殖し、究竟す」
 
限りない功徳、多くのものの素晴らしい徳を修めていく。
功徳を殖やしていく。
 
そして、それを究竟(完成)する。
仏に成るための全ての智慧と慈悲を完成していくのです。
 
自分中心に働いていた「末那識」が、転じて空を体得することによって「平等性智」となって働くようになっていく。
 
専門用語でこれを説明しますと、認識の「所縁」(対象)が、
「阿頼耶識の見分(自我)」から、
「一切法.真如」に向くようになります。
 
これが「十種の平等性」です。
平等にものを見ることが出来る。

自分しか見ていなかった、見えなかった私達が平等に分け隔てなく、全てのものをあるがままに見ることが少しずつ出来るようになる。
 
これが「平等性智(びょうどうしょうち)」という働きです。
 
ちなみに「初地(しょじ)」という覚りの体験は、
末那識の一部が、平等性智に変わる体験ですから、
上記の十種の中の一部が自分のものとなります。
 
これを唯識学で、古来、

『妙観(みょうかん)平等、初地分得(ぶんとく)』と伝統的に言い習わされてきました。
 
「初地に至れば、意識の一部が妙観察智に変わり、末那識の一部が平等性智に変わる」ということです。
 
親鸞聖人は『教行信証』は、ご自身が「初地(しょじ)」に至った境地を「大慈悲心、大菩提心なり」と説かれています。
 
"唯識講義【令和2年02月06日】③十種の平等性智を証得する【仏地経】・清森義行" 


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