【11月28日(日)】午前8時半から夕方4時まで、名古屋市東区砂田橋大幸団地にて聴聞しました。
 
〖質問1〗
人はなぜ怒るのか、悲しむのか?喜怒哀楽があるのか?

〖質問2〗
人はどうして泣くのか?

〖質問3〗
人に振り回されるのはどうしてか?

〖質問4〗
有り難うと言わなくなったのは何故なのか?

〖質問5〗
阿弥陀仏のニ十七願について

〖質問6〗
説法を聞いて入りにくい人と、入りやすい人はどこが違うのか?

〖質問7〗
思想とは何か?
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【一座目】

人はなぜ怒るのか、なぜ悲しむのか?門前払いをされると怒るのか?

怒るのは、門前払いをされたことで「自分が悪い」と思った時に、これを「相手が悪い」とすり替えた時に怒りが起きる。

都合の悪い現実が起きた時に、自分が悪いと思う。目の前で起きた都合の悪い時に自分を責める。

なぜか?それは悪い人を責める習慣があるから。悪いのは私でなくて、相手だ!
相手を責めるのが、怒る。
怒るのは強がっている。本当は門前払いをされたのは、悲しいことなのです。

仲良く話をしたいと思って、裏切られたのは悲しいことなのに、
悲しいということは、誰かに自分気持ちを分かってほしい。

自分は人が必要で、一人で生きていける強い人間じゃないのに、一人で生きていける人間だと思っている。

そう思いたくないので、都合の悪いこと事態を悪いことにする。
悲しい時は誰かを必要としている。
そうなると自分は弱い人間と思ってしまう。

誰かに話を聞いて貰いたい、受け止めて貰いたい。誰かを必要とする自分が嫌で、相手がちゃんと話してくれたら、と思って怒りが起きる。

本当は怒りを起こす人は寂しい人なのです。
赤ちゃんは都合が悪いことがあると泣く。ほうっておくと怒る。
つまり怒りは、悲しみを対処しない時に起きる。

赤ちゃんが泣くのは「ママ来て」と対処してほしい。来てくれたら、悲しむだけですむ。

人間にとって悲しむことは大事なこと。思い通りにならないと誰だって悲しいのに、悲しい心をほったらかしにしていた。
「どうせ私なんて」となると怒りが起きる。

「自分は強い人間だ」と思いたい。自分の気持ちを誰かに話をしたいと思うか?
話が出来たら、怒りはなくなる。

寂しさは自分の感情が訴えている。「自分の気持ちを分かって貰いたい」
感情を受け止めてくれなかったら、傷つく。

自分が弱い人間だと分かってしまうので、怒る。
怒る人は自分は強い人間だと思いたい。本当は門前払いされただけでも心が折れる弱い人間なのです。

自分の気持ちをここにいる人達は受け止めてくれる人達ばかりですから、悪態をつく時も、「悲しかった」と言うんです。

怒るのは阿呆やけど。悲しかったんです。
弱い自分が出せるように。

https://youtu.be/2xPq2kixE6M
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【ニ座目】

どうして泣くのか?
仏法では泣くのに二つある。
一つは悲しくて泣く。もう一つは嘆きで泣く。

多くの場合は感情がたまっているから泣く。込み上げる感情が込み上げて泣いている。

自分の中に感情が込み上がって泣く。日頃、ためているものが溢れてくる。泣くとスッキリする。

泣ける人は病気になりにくい。
泣くのでも、嘆きはよくない。

地獄の衆生が泣くのは嘆きで泣く。嘆きで泣くのは、心がスッキリすることはない。

悲しいのは、幸せな時しか泣かない。嘆きは怒りの先にある。
怒るのは相手を責めて、どうにもならない現実を何とか誤魔化したいから、だから怒る。

怒っても現実は、どうにもならない時に人は嘆く。嘆く人は現実を何とかしようとは思わない。

心の中では「お前が悪い。世界が悪い。どうしてくれるんだ」と嘆く。

その時に地獄の衆生は皆、泣く。
鬼が「お前が種を蒔かないからだ」と言われても、ただ嘆かずにおれない。

怒りの、その先にあるのが嘆き。怒っているのは、まだ楽。

地獄の様子を見ると、みんな泣いている。なぜ泣くのか?
悲しくて泣くのでなく、地獄の衆生は泣けば泣くほど、苦しくのたうち回る。

人は現実と向き合って種を蒔いていけば、道は開ける。

自分の気持ちを分かってくれる人を持たずに、何とかなると思っていると思い通りにならないことに苦しむ。

どうにもならない現実に遭うと嘆く、苦しむ。味わうと苦しいし、種を蒔かないで、苦しみ続ける。

この嘆きは味わわない方がいい。

悲しくて泣くのは幸せ。
嘆きは分からなくていい。知ってしまったら、そこは地獄の底にいる。
地獄の衆生が泣いている。

現実に生きているままで起きる。乱暴な種を蒔いて、孤独の中で起きるのが嘆き。

その人を助けてあげようとしても、その人は助けてあげても「有り難う」とはいわない。猛烈に怒る。
この世で嘆き続ける人は、死んでからも嘆き続ける。

悲しいのは幸せな人しか起きない。喜怒哀楽は幸せな時しか起きない。

世の中に、嘆くのは仏法から逸れて間違った種蒔きを頑張って、やったから。

本当に仏法のない人は、ドンドン追い詰められて、最後は嘆きとなる。

仏法は、幸せになるための教え。

仏法という教えの真理に従って生きている人は悲しくて泣ける。

自分勝手に生きている人はどんどん追い詰められると腹が立つ。
その先にあるのが嘆き、のどかカラカラに乾いているのに泣いている状態。

そこに塩を塗り込んでいく泣き。痛い痛い、心が悲鳴をあげている状態。
地獄の嘆きは絶対に味わわない方がいい。

悲しくて泣けるのは幸せな環境、崩さないように頑張った方がいい。
道を間違えると、苦しくて苦しくて、助けられない。

嘆きまでいったのは歴史がある。遡っていかないと、その人を助けられない。

仏法から反れると、みんな嘆きの世界へと堕ちていく。

https://youtu.be/8iZ-9XHCD3E
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【三座目】

他人の言葉に振り回されるのは、どうしてか?
「こういう人だよ」と言われるとそのように思ってしまう。

軸とは?我(が)とはカブトムシのようなもので、軸とは骨みたいなもので違う。

この軸がないから、振り回される。軸とは自分の中で何が善か、何が悪か、それを持って、それを続けてきたものが軸です。

それを実践していないと軸はない、ということ。

例えば、整理をしてきた。大事だなあと続けてきたものが自分の軸。何を続けてきたかが大事。

軸のない人は?
整理をすることは善か、悪か?
昔から分かっていた筈。汚いよりも綺麗な方がいいと分かっているなに、やらない。

そうすると自分に軸がないまま、時間だけが過ぎてしまった。
整理をやってないのは何故、整理が大事なのか、分かっていない。
何故、それをしなければならないのか分かっていない。

自分に善悪があっても、実践していない。
続けてきたものが、どういうものか。やってきていないから、影響されることはない。
いかに自分の中に、何が善で何が悪かを持って続けていくことが大事。

自分が続けてきたものは、
「あなたはしなくていいよ」と言われてもそうだとは、思わない。

正しいと分かっていったならば、振り回されない人間になれる。

人のアドバイスを聞いて正しいと思うなら、やってみるとよい。

テストが近づいても、私は切羽詰まってやる人間でない。

テストは先になっても、早めに勉強を始めていこうとなる。
切迫つまらない時から、勉強をしていこうとなる。

種蒔きを変えていこうとする。
じゃあ、どうしたらいいのか。
続けていくと、「仕事が出来ない」とは言われなくなる。
    【終了】
https://youtu.be/pjm7KeLxV3Q
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【四座目】

「有り難う」と自分が言わなくなったのは何故なのか?

罪悪感を感じているから、人間は唯識で世界を見る。
罪悪感を消したいから、挨拶をする。

挨拶をすると清々しい気持ちになる。唯識の鬼に対して、言う。
口先だけでいい。心のこもらない「有り難う」でもいい。
https://youtu.be/o-zCJeCxsQw
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【五座目】

阿弥陀仏の本願のニ十七願について。所須厳浄の願という。

「国の中の人天の一切の万物、厳浄光麗にして、形色殊特に窮微極妙にして、能く称量することなけん。その諸の衆生、乃至天眼を逮得すとも、能く明了にその名数を弁ずることあらば正覚を取らじ」

教えを聞いている人達の世界、それが厳浄光麗にして、光り輝いている。人天が物を大事にする。
大事にするものは光り耀く。
ここでは、豊かに物の一つ一つが光り耀いているのが、物質的に光り輝いている。

例え話、世界にあるものは、こんないいところもあると尽きない、徳が一杯備わっている。
天眼を逮得する。物事の本質を見極める。

良いところが、これとこれとこれ、数えきれるならば、仏にならない。
https://youtu.be/gQcBoduwN0A
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【六座目】

説法を聞いて入りにくい人と、説法が入りやすい人とは、どこが違うのか?

以前は入りやすかったのに、それは国語能力が足りないからでない。

それは、教えが分かってきたから。説法とは、この我を打ち破っていく教え、破るとどうなるか、
自分の存在が否定されているように感じる。

初めのうちは、我とは関係なく聞けたので、素直に聞けても、段々、我が邪魔して、心に入りにくくなる。

我が邪魔して来て、入りにくくなってきた。分からなくさせている。分かりそうなのが怖い。

本当に入らせるには、一方的な説法は入らない。
玉虫色のように自分で変えるから。

蓮如上人も「水よく石を穿つ」と教えられる。

入りやすかったのも、入りにくくなる。我を打ち破っていくか、心に入りにくくなる。
 自分を変える段階になると聞けなくなる。

30分も経つと何を聞いたか、分からなくなる。

こんな話したっけ。それは、その人の問題点の話

だから、テープお起こしをするとよい。どこが自分は聞けていないか分かる。
分からなくさせたものを聞くと良い。
胸が痛くなる。我にキリで開けられるように感じるが、大事なこと。

忘れていこう、忘れていこうとする。

善知識も一緒、水よく石を穿つ。
繰り返し、石に水を当てていって、やっと心に入るようになる。

https://youtu.be/LRDRQocFAiU
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【七座目】

思想とは何か?

例えをもって話をすると、日想観、西に沈む太陽を沈むまで見ると眼を閉じても眼を開いても、心に太陽のイメージを持ち続ける。

これは仏様の太陽が、いつも私の心を照らし続けている。
私の中に仏様の思想が出来れば、日想観が出来る。

「何が善で何が悪か、何が正しいことで、何が守るべきことか」
これが思想、私自身の自分の中の基準が出来る。

聴聞すると、これが正しい。これが善、これが悪と分かる。

思想が変わる。大体、善知識の思いが分かる。仏法思想、信心決定すると、仏のみ心をあやまることは大体ない。

仏法思想の固まりが信心。それを実行が出来るか、出来ないかは別。

正見とは、ありのままに見ること。

松の木を見て、これをまっすぐに見たものには、金100貫を与える。

まっすぐみるとは、曲がった松を曲がった松じゃなあ。
自分が善を出来るか、出来ないか、関係なく。

責めないようにするのでなく、まっすぐにあるがままの姿を見る。思想という物差しで見る。。

曲がった松をまっすぐにみようとする。思想とは基準から。

仏という絶対基準があるので、私達は大体、何やっても間違っている、となる。

     【終了】

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