【11月25日(木)】岡崎市福岡町の上田家にて午前9時から11時まで、聴聞のご縁を頂きました。

〖1〗戒について
〖2〗五戒について
〖3〗六度万行について
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【一座目】

「戒」とは四聖諦の中の道諦で、中道に当たる。

感情を大事にして、正しい方向に持っていくのが「戒」

仏教の基礎が四聖諦の教えです。人生はどうして苦しみになるのか?

なぜ価値のあるものを求めようとするのか?

価値のあるものとは「我」です。
自分が信じてきた常識や正義を価値のあるものと置いて、自分は価値があると思う。

それは自分でない。ここが一番のポイントです。
我は本当の自分ではない。

その証拠に死ぬ時には置いていかなければならない。

「ブランドモノには価値がある」と思う。しかし死んでいく時には置いていかねばならない。
死ぬ時に価値がなくなる。そうすると、価値のない自分になる。

元々、私は価値のない自分だったけど、何かを手に入れると価値のある人間になったという立場に立っていた。
見捨てられる自分だと思う。

常識や正義を手に入れて、安心している。
価値のあるものに執着すればするほど、失うと「意味がない、価値がない自分だ」と思って、自分を否定する。

自己否定する。感情が見えると自分をマイナスの我だと理解する。

執着すればするほど、自分自身が価値がないと否定する。

お母さんならば、常識や正義のために、今まで自分の色々な気持ちを我慢してきた。

右に行くことが価値のあるものと思うと、右に行こうとする。

国民栄誉賞を受け取らなかった人がいますが、受け取ったら、立ち小便もできない。
普通の感情を出したい、マクドナルドにいきたい。普通の気持ちがある。

価値によって我慢する状態になる。我慢したものは、人を馬鹿にしたら、感情が爆発して、やりたい放題になる。

自分の正義にしたがっているけど、自分の感情が納得している訳でないので、自然とやりたい放題になる。

どんなに正義にしたがっていたとしても、自分の業がそのようになる訳でないので、感情を無視して生きていた人は、人が見ていないところでは思い切り、やりたい放題の種を撒くことになる。

例えば、挨拶をするのは当然、正義だとすると、自分は我慢して今まで挨拶をしてきた。

それでは挨拶という種蒔きが身に付くことはない。挨拶が大切だという正義で、やっていた。

挨拶を返してくれない人には挨拶をしない。それは挨拶が身に付いているとはいえない。

自分の業となって染み付いているとはいえない。
何で挨拶をしないの?やるべきだ!なぜ挨拶を返さないの?

人に対して、どうして?と思うのは、自分に身に付いていない。

「本当にしよう」と思って、やっている訳でない。
感情を我慢して正しいことをやっているから、問題にする。
自分は我慢してでもやっている。

例えば、靴が揃っていなければ、揃えていない人を見て責める。

これは自分の正義、我。自分は揃えている。しかしそれは「靴を揃えることが大切だ」と思って、揃えている訳でない。

やらないと、ぽんと変わる。
それは正義が変わるだけ。

人に対して、何で掃除しないの?と聞く。

掃除がしたいから、している訳でない。だから、掃除という業が身につかない。

こうしなければならないから、仕方なしにやっている。
自分だけがやっていると不満になる。不満が起きるものはやらなければならないから、やっている。

それは、やりたい訳でない。
やりたくないから、挨拶を返してくれない人にはしない。しなくていいと思うから、身につかない。

ずっと挨拶をしてきたけど身につかない。

戒とは例えば、手を無理やり曲げることはできない。心がついてくる訳でない。

どれだけ長い間、やってきても、心がついていないと身につかない。

「心がついてくる」のが戒である。

正義でやったいたことに気がつきなさい。

ナイフで殺した、刺したい、良くない。どうして良くないと分かっていない。我慢していた。

やることを正当化したいる。悪いことをしていると思っていない。酷い目にあったから、悪くない。

感情を大事にしていなかった。

ところが感情を大事にして下さいというと、
何でも感情通りにやることが正しいとそこに価値を置いてしまう。

中道とは、感情を動かすこと。
感情が挨拶をちゃんと出来るように持っていく。

例えば、掃除をちゃんと出来るようにするには、心が掃除が何で大事なのか、大切なのか。
これが本当に分かったら、掃除しないと不幸、可愛そうだなあと思う。

周りの人か誰も掃除をしてなくても自分は掃除をする。
挨拶も本当に大切だと思ったら、相手が自分に挨拶を返してくれなくても、自分は挨拶をしていこうとなる。

仏法の中道の教えが、最初に正見と教えられる。

自分はやろうと思ってやっている訳でない。心から掃除をしたいとは思っていない。

掃除とは正しいこと。「自分は何で掃除をしたいと思わないのか」と疑問を持つことが大事。

聞くことで、正見。こんな大切なことがあったんだ、こんな人間になりたいんだ、と行いをしていく。

これが正業。掃除が身についてくる。何で掃除をしないといけないか、自分の感情が納得する。

感情で嫌だとなるとしなくていいと思う。これも間違い。中道からずれている。

戒とはこれを理解して、納得するまで聞く。何で掃除、挨拶をした方がいいのかを納得して、行動するのが戒。

🔘感情を大事にして、正しい方向に持っていくのが戒。

https://youtu.be/XsrVikaVjOE
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【二座目】

(「五戒」のこの説法は、『大無量寿経典』五悪段と『往生要集』の八大地獄をベースにした解説です。)
殺生【等活地獄】
偸盗【黒縄地獄】
邪欲【衆合地獄】
飲酒【叫喚地獄】
妄語【焦熱地獄】

五戒とは、罪悪をやめること。
罪悪を犯している私達が罪悪をやめていくこと。

価値のない自分を否定することを殺生という。殺す。

私達は何か価値のあるものに縋ると持たない自分を自分でないと思う。殺そうとする。

正しいと思う自分を出せなくなる。悪いと思った自分を消せば、価値のある自分になれる。

これを仏法では「分別心」という。物事を善と悪に分ける。
悪を否定すれば善になる。善と悪しかない世界。

何でも反対する人か正しいとなる。しかし、あなたやりなさい、といわれて、正しいことが出来る訳でない。

私達は「自分が正しい、自分は善人」という立場に立ちたい。立てば、間違いのない人間になれる。

自分の中に、正しい立場に立ちたいとの思いがあるので殺生する。

ここから、全ての罪悪が始まる。

罪悪をやめる。苦しみを生み出すのをやめる。
価値のある所に立ちたいから、価値のないものを否定する。

間違いを犯した自分を徹底的に否定すれば、なくなると思う。

あの人の悪いところが見える時は、自分は一つも間違いのない自分だと思いたい、間違いのない立場に立ちたい。

自分の間違いが分かれば、否定が出来ない。
正しい所に立って否定すればするほど、自分自身を縛るようになる。

◯◯会では「思い切り責めて下さい、そうすると自分はやらないようになるから」と教えられた。

人を責めると黒い縄で縛られる。
黒縄で縛られる。「なぜか」というと、悪いことをすると、責めていた刃が自分に向く。
これを一般的に罪悪感という。

これを偸盗、盗み心。黒縄地獄を生み出す。

分かりやすくいうと、
私は人から愛されない。愛される結果だけが欲しい。愛されるためには愛される種蒔きがある。

愛する種蒔きをするから、愛されるという結果が得られる。

黒縄地獄の人は縛られるという結果を受ける。

例えば、靴を揃える。揃えたくない、善というのは私達は、全部縛られてやることが多い。それは苦しいこと。

仏法は「善とはやりたいもの」と教える。
いれてあげよう。やってあげたいから善

揃える、善をやること自体が幸せ。

直せ、見下されているように感じる、この気持ちが偸盗。

自分は縛られているのに、相手は縛られていない、羨ましい。
その人が自分の思うことをやっているだけで、それは偸盗、結果だけが欲しい。

羨ましい、憎たらしい、いい思いがしたい。
盗む、人がいい思いをしている、それが自分の思うような種蒔き受けているのが羨ましい、種を撒かずに結果が欲しい。

黒縄で縛られているから、嫌嫌やっている。
自分が鋭い目で、何であの人は掃除、洗濯してないの?

それは自分が悪をした時に返ってくる。いつも言い訳をして、縛られている。
これが黒縄という世界、楽になりたい。

これが次に邪欲となる。
自分がやりたいことがやりたい。

自分が怠けていると、刃が自分に向くと、相手を取るに足らない人間と見るようになる。
馬鹿にする、相手を取るに足らない人間と見る。女性を無視して、性の捌け口にする。

好きなだけ食べてあとは捨てる。作っている人の気持ちを無視する。
相手の気持ちを無視して、無視しないと好きなことができない。
楽になりたい、相手のことを軽く見る。

その報いで今度、相手が好きなことをやっているのを見ると許せなくなる。
姿を見て、無視されているように思う。

それは邪欲の心、相手を軽く見ないと自分の好きなことが出来ない

自分の種蒔きが跳ね返る、無視されているように感じる。

私を無視しているから、法律を作る。約束事にになっているという。

規則を作る。作って相手の心を潰そうとする。

そこで邪欲は衆合地獄となる。

心が岩と岩とに潰されて、正義が通用しなくなる。
思えなくなると瞬間に苦しくなる。

馬鹿にされたくない、正義で相手、自分を潰す、潰されているように感じる。

自分が作り出した正義が貫けなくなった時に現実から、逃げようとして、次に飲酒の罪となる。

飲酒は、叫喚地獄となる。
自分の罪悪を見たくない。
黒縄はまだ守れる。
邪欲は相手の自由を奪う、理不尽なことをして奪っていく。

自分の好きなことをやる。しかし人に要求していることを自分はやらない。
否定するようになる。否定すると自分に跳ね返る。

そこで現実逃避、欲に走らざるを得なくなる。

好きなような行動をする、周りの人が許せなくなる。
怖い、不安、自分の種蒔きで怖い。毎日毎日、酒を飲んで過ごした。欲に流れてないと怖い。

大きな鬼が現れて「お前はどうなんだ」と責めてくる。
だから、いつも欲に流れずにおれなくなる。

最後は怒り、嘘をつく。
妄語は情熱地獄を生み出す。。

自分の中の正義もへったくりもない。
ここから先は、自分が正しいことは正しい。

妄語は焦熱地獄を生み出す。

私が刺すことは悪いと思ったら、刺せない。
刺すことは正しい。自分が、こうしたいことは正しい。
怒りを起こさないと感情を起こすのは、自分は悪いと思っている時。

焦熱地獄は、いつもいつも怒り続けている。
正しいところに立つには、他を悪いと思わないと立てない。

苦しいので現実を見たくない。報いを受けたくないから。

罪悪をやめていく。離れていかないといけない。
先ず自己否定をなくす。

https://youtu.be/TTiT55VgN5A
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【三座目】

価値のあるもの、我に縋(すが)るから、価値を失った、ありのままの自分を否定する。

何で価値のあるものを、縋るかというと、見捨てられると思うから、これを「疑情」という。

価値のある我に縋る、縋るから殺生する。見捨てられるという疑情が起きる。

見捨てられたくないから、価値のあるものに縋る。

そこで、また分別心の話になりますが、「分別心」は世界を善人と悪人に分ける。

善人は大事にされるけど、悪人は見捨てられると思う。

自分を間違い、間違っていると受け入れられずに善人に価値があると思ってしまう。
悪人は見捨てられると思う。だから善人という我に縋(すが)る。

疑情を張らすために実践するのは見捨てられるという疑情を晴らすために、なぜ相手と向き合うのか?

相手は自分を、善人と見てくる時と、悪人と見てくる時とがある。

自分を善人と見てくれる人にはどれだけでも施したいとなる。

自分が悪人と思われ、自分の存在を快く思わない人には施したい、とは思わない。

しかし、布施とはあまねく施すという事。

好きな人は好き、好き嫌いが大きくなるのは、分別心があるから。

自分に対して施しをする。
思い通りになる時には、優しくするけど、
思い切りにならない時には、冷たくなる。

自分は善人でいたい。自分の悪をいかに許せるか。思い通りにならない人であってでも、優しくしていくことが大事。

同じ人に温かく接すると、相手は自分を軽く思い、責める文句を言ってくるようになる。

この人を優しくしていくと決めた、思う。悪人を感じさせる。自分を責めてくる人にも、相手に温かく接していく。

先ず布施、そして持戒。余裕がないといけないから、相手の心を大事にしようとすると相手は気持ち良く私を馬鹿にしてくる。

「本当にあなたって悪い人ね」
「あなたって、糞みたいな人ね」
と言ってくる。
「そうだね。僕は糞だね」と言えるか。

これを忍辱と言う。自分を悪人だを受け入れてしまえば、苦しみは消える。
自分の中の悪人を受け入れると、殺生、偸盗、邪欲、飲酒、妄語、全部、消える。

五戒を、保てる。
疑情を晴らせば、殺生も消える。六度万行を実践していく。

自分の悪人にこそ、温かく接していく。それが六度万行を実践するということ。

六度万行を実践すると疑情が晴れる。苦しみがガクンと減る。

悪人と見てくる人に如何に施しをするか。疑情を晴らすために。

苦しみの根元は疑情。
「決以疑情為所止」【正信偈】

最後の牙城である疑情を晴らす。

仏になれる道が六度万行。
六度万行が出来ると、自分は仏になれそうだとなる。
https://youtu.be/_Fd4SDGWi70
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     【終了】

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