【質問】

「浄土とは、どこにあるのか」について、唯識学の視点から、簡単に説明をお願いします。

【回答】

浄土仏教の多くの方々は、
「人は死んだら、阿弥陀仏のお力によって極楽に往ける」と信じています。

しかし、真実からいうと、
「浄土とは、死んでどこかにある世界や場所のことではなく、自分の心によって生み出された世界」のことなのです。

人は幸せになりたければ、自分の周りの人を幸せにしてあげなければなりません。

幸せとは、自分を取り巻く環境によって感じるものであり、
私達は自分だけで幸せになることは出来ないのです。

では、どうしたら、自分のいる環境を「浄土」に変えてゆくことが出来るでしょうか。

「浄土」に変えるためには、
まず自らが幸せを感じて、自分に集まった人達の心を幸せに変えてゆくことです。

具体的には、
自分の周りにいる人達の心を慈悲の心で、
「人を思いやる温かい心」に変えてゆくことが大切です。

「温かい心に変える」とは、どういうことかと言いますと、
その人に接する時に、温かい心(慈悲)で接してあげることです。

そうすることで、相手の心が温かくなっていきます。

しかし、実際は「温かい心」で接したから、と言って、
すぐに相手が「温かい心」を返してくれる訳ではありません。

それは、その人が育った環境が深く関係しています。

「心が温かい人」というのは、
「温かい環境」で育ってきた人です。

そういう人は、自分の心が温かいだけでなく、相手の心も温かくすることが出来ます。

そして、幸せな世界を生み出してゆくことが出来ます。

それに対して、
自分のことを相手にしてもらえない冷たい環境に育った人の心は、悲しいかな、冷たくなります。

「温かい心」に触れたから、と言って、すぐに自分の心が温かくなる訳ではないし、
「温かい心」を返してあげられる訳でもないのです。

そういう人には、時間をかけて、相手に慈悲を与えて、相手の心を「温かい心」で温めてあげていくしかありません。

それは、ちょうど、
鶏(にわとり)が玉子を温めて、
雛(ひな)が孵化(ふか)するようなものです。

相手の心を温めると、段々と相手の心が育っていきます。

その時に、相手は色々な反応をしてくると思います。

時には、イライラしてみたり、
時には、一人になりたいと飛び出してみたり、
時には、好きなことをやりたいと言い始めたりして、

自分の中に溜まっていた
「負の感情(煩悩)」を吐き出して来ると思います。

多くの人は、これが嫌だから、
感情を吐き出させないように、封じ込めようとしてしまいます。

しかし、感情を封じ込められてしまうと、その人は、
「負の感情を吐き出してはいけないのだ」と思うようになり、

「どうせ自分のことなど、誰も認めてくれないのだ」と、
他人に対する深い不信感へと変わってしまいます。

この不信感が出来た人は、人を信じることが出来ません。

リラックスする為に、その人は一人になろうとします。
ところが一人になると寂しいので、寂しさを紛らわす為に、誰かにちょっかいを出します。

そうして、少し楽になると、また一人になろうとします。これを繰り返すのです。

結局は、一人で心の中には、いつも寂しさで満たされています。

寂しいから結婚しても、一緒にいることが苦しくて、一人になろうとしますし、
やはり一人だと寂しいので、子供のところへ行きますが、
子供に合わせることが出来ないで、やっぱり一人になります。

まさに「氷の地獄」と「火の地獄」【経典】となってしまうのです。

「氷の地獄」にいる間は、心は冷えて寂しいから、
「火の地獄」に行こうとしますし、

「火の地獄」にいると、欲に流れて好きなことが出来ないから、
「氷の地獄」に行こうとします。

こうなってしまいますと、
幸せな世界を作ることが出来ず、いつも心は苦しみながら、何かを求め続けることになります。

では、こういう人の心を、
どうしたら幸せに変えてゆくことが出来るでしょうか?

それには、
まずただ「温かい眼差し」で、
傍(そば)にいてあげることだと思います。

相手は誰かが傍にいる環境で、好きなだけ、欲に流れたいだけです。

しかし、一人ぼっちの環境で、欲に流れても寂しいだけです。
だから、誰かに見守って欲しい。

見守ってもらっている時に、ちょっかいを出されると、好きなことをすることは出来ないので、一人になりたいと思う。

一人が楽だから、一人になりたいと、人のいる環境から離れて、
一人になろうとする。

しかし、その人が本当に求めているものは、実は一人の環境ではなく、誰かが自分の傍で見守ってくれる環境なのです。

その環境の中で、
「いつも自分のことを見守られながら、自分の好きなことがしたい」と思っているのです。

そうして、自分の好きなことが出来るようになると、
今度は自分のことを見守ってくれる人に話を聞いてもらいたいと思うようになります。

そして、聞いてもらえるようになると、自分の感情を吐き出して、受け止めてもらおうとします。

それは「寂しさ」という形になるかも知れませんし、
また「怒り」という形になるかも知れません。
また「悲しみ」という形になる時もあります。

そうして、自分の感情を受け止めてあげることによって、
相手の心は少しずつ楽になっていきます。

そうして、自分と一緒にいる環境に安らぎを求めるようになるのが「浄土」なのです。

「浄土」とは、どこかにある世界のことではなく、
「その人と一緒にいることによって安らぎが味わえるような世界」なのです。

それは誰かが作ってくれなければ、味わうことが出来ません。

そういう世界を自ら作ろうと思う人が、
「菩薩」であり、それが、
「仏になりたいと求める人」なのです。

「浄土」を高僧の中で最初に言われた方は、龍樹菩薩です。
ハッキリと『十住毘婆沙論』に浄土は現在であり、
「菩薩が生み出していく、作り上げていくのが浄土である」と述べておられます。

それを受けて、
「不体失往生」とか「平生業成」という言葉が生まれたのだと思われます。

https://m.youtube.com/watch?v=Y49dzWyIoeg&feature=youtu.be

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