【人類の「進歩」と人間の「成長」】
 
ブラックジョークのような、悪い夢のような、近未来を描いた映画にあるディストピアのような、そんな風景が現実のものとして、日々、目に映り、耳に入り続けると、時としてとても苦しくなる。どうしてこのようなことになったのだろう。いつから人間は「進歩」という幻想に寄りかかり、自分を「成長」させることを忘れてしまったのだろう。
添付の動画は、ネットで拾ったもの。このような冗談としか思えないやり取りが、社会のあちこちでなされているのだろう。時間とエネルギーの無駄としか思えない、不毛な対話…それでも私たちは対話を続けていく必要があるのだろうか。この対話の先に成長が望めるのだろうか。
そして、以下の一文は、野口晴哉先生の著書「体癖」の冒頭にある一節である。ここに書かれているような「危うくて仕方がない」状況が、より極端なカタチで現実化していると感じる。もし野口先生が生きていらしたら、今の社会をどのように眺め、どのようにおっしゃっていたであろうか。

『この世に生まれて七千万年、人間はいろいろな面で進歩した。しかし進歩したのは人間だろうか。水爆を作って地球の存在をすら危うくするに至ったのだから進歩したのだろう。しかしそれがあるため、言いたきを言えず、笑いたきを笑えぬようになったとしたら進歩であろうか。知識を積み重ねるということによってこの世界を進歩させた人間も、五十年百年するとまた初歩に戻る。それ故人間自身の智慧は、積み重ねた知識と異なって五十年百年のはたらきしかしない。だから水爆を作った人々でも、奥さんがふくれて出迎えたといって怒る。他人の無礼な言葉を聞くと侮辱されたと憤る。感情も智慧も知識のような積み重ねがきかないのだから、現存の人間1人分のものでしかない。

この現存の人間は昔の人より進歩しているだろうか。昔の人より却って忍耐がない、努力は続かない、体力も弱い、気力も少ないといって間違いだろうか。積み重ねた知識の前では、智慧も感情もむしろ幼稚な存在ではないのだろうか。釈迦を乗り越える智も、キリストを超える愛もない。仁も徳もまた勇もそうかもしれない。その知恵で、その感情で、積み重ねた知識の結晶である水爆をいじっているのだから、危うくて仕方がないのである。誰にもあるこの不安こそ、人間は進歩したのだろうかとの答えになっていると申してよかろう。』