こないだの水曜日、自宅からいちばん近い動物園と遊園地へ、家族で遊びに出かけてきました。


珍しい動物を前にして「ほらほら、白くまさんだよー」と、はしゃぎながらベビーカーに座る娘の顔を覗きこんだら、彼女の瞳いっぱいに、水面の光が映し込まれているのが見えました。

「いま、娘の内面にも潤沢に光が注がれているんだ。こうして世界にある美しいものを、自分のなかに集めていくんだ····」


通り一辺倒の親っぽい振る舞いなんて、おやつにもならない。

大人が評価するものに焦点を合わせようとするではなく、娘の内面へ響いたものを、娘が納得するまで瞳に焼き付かせることのほうが、彼女にとって うんと大切なはずで。

大人になるまでは束の間だろうけど、うんと手を貸していくつもりだからね、頼りにしてね。


4月から夫が仕事へ復帰するので、平日に家族で出掛けることは、いったんこの日が最後となりました。

秋から生活が一変して、戸惑ったり、夫とかつて無いほどの険悪ムードになった時もあったけど、クライマックスに差し掛かった今となっては「何だかんだで楽しかったな」の想いが真っ先に浮かんできます。やっぱり夫の退職は、規定路線だったはずです。九州への帰省も叶えられたし、わたしも百貨店で働けて、心が弾むかのような日々を送れました。


そんな具合に、いつもわたしの人生は「あの頃、楽しかったな」ばっかりです。

結婚後は特に顕著で、新婚時代も、コロナ禍へ突入した頃も、百貨店で働いてばかりだった時期も、妊娠中の日々も(ツワリは地獄だったけど)、娘を迎えてからも勿論のこと、退屈さを含んでいたりもするけど、ベースは楽しさで仕上がっていたなぁって。


ついこないだ、退屈に堪え難くなってしまった、あの滋賀の日々ですらにも同じことが言えます。散歩中に撮った畦道の写真をいま眺めたら「この風景の中に娘と身を置いていた時、確かに幸せだったよな、穏やかさに満ちていたよ」って、不穏なものの気配なんて、何も引っ付いてはいません。


わたしの “楽しい” は、いつも振り返った時に、過去形になってから見当たるばかりで、もっとこう「うわぁー!いま楽しいー!この時間よ永遠につづけー!」みたいに、その時間から注がれる楽しみを、露ほどもこぼさずに全身で享受できる人こそが人生の勝者で、皆してそこを目指してゆくものじゃないの?といった、考えを抱いていた時期もありました。

(ある意味、今ここの呪縛?もしくは「ちゃんとあの時味わえていたのかな」って、自分を疑っているのかしら)


でも、後々になって「楽しかったな、幸せだったな」と脚色なく、力みなしにそう思えているのなら、合格点かもしれません。

そして、そういう振り返り方が出来ない予感がある場所に身を置いているとしたら、全力で離れるべきなんですよね。経験と加齢を味方につけて、その見極めはそこそこ上級者になれているはず。誰だって本当は、上達するしかない一本道だと思います。


ちなみに娘に対しても、似たようなクセを発揮してしまっています。少し過去の娘の写真を見ては「もうこの頃のミニマム娘に会えないんだ····」って、生後2ヶ月あたりから、何度となく繰り返してばかりです。もちろん どの時期の娘も愛おしいし、愛でられるのは目の前にいる実像の娘だけと分かっちゃいますよ。


うと ありさ 🐻‍❄🧊🍧


夫イチオシだったレッサーパンダ。