最近、義父と電話で話すことが続きました。

その中で「正論を言うときには、うんと気を付けなきゃならない。正論って人を鋭く傷付けることがあるから」と言われた時に、初めて気が付いたんです。

【“正論は人を傷付ける”という正論】によって、また傷付くこともあるよなって····。


お義父さんの言うことは筋が通っていて、わたしだって正論は慎重に扱うべきものと見なしていたし、相手を屈伏させるために使ってはいけないものだと、分かっていたつもりでした。

「けれど、初手から正論をかましたいわけじゃなくて、悪手だと分かっちゃいるけど、やむを得なしに正論を突き出すしか無かった、というケースだって、世界のどこかで起きているはずだ····」


マスターしていたはずの観念が、今までにない角度から見えたことで、世界観すら やや変わってしまった気がしました。

(言葉って、イメージの部屋を移動してますよね。正論って言葉は今は、忌み嫌われがちな部類の部屋に分類されている気がする)


そして【“正論は人を傷付ける”という正論に傷付く】という主張がはびこり出したら、またきっと傷付く人だって出てきて····もうワケが分からない。(ことこそが、正しさのいい加減さを暗示しているってこと?)


わたしが幸運だったのは、その1つの真実を、傷付くことなく知れたことです。

義父は、正確さに根ざした職種で家族を養ってきた上に、正しさの価値観と並走しながら生きてきたような人ですから、正論の厚みや重みを、身を持って知っているはずです。

そんな人が説教をするではなく、一言ずつを託すように自分の考えを、わたしへと差し出してくれました。だから屈辱感にも似たような感情を少しも抱かずに済んだのです。


それともう1つ、その電話の際に感じ取ったことがあります。

「その時に御縁があった相手と、気付く役、気付かせる役を、その瞬間、担い合っているだけなんだ」

立場で言うなら義父のが上だし、人生の先輩です。でも、新しい時代の風をより感受しているのは、私のほうかもしれません。

人よりも知っていたり、洞察が深かったり、霊性が高いからこその役割もあるだろうけど、それとは別ラインで、瞬間的な役回りを充てがわれているのかもしれないな、と。


そうだとするなら、他人をもう少しフラットに眺められる気がします。どんな人物だって、何か大きな存在の、小手先でしかないのかもしれません。(小手先の言葉も、ちょっとネガティブな部屋の住人かも)

それなのに、そのことを ちっとも嫌なことには思えない。

むしろ絶望とは、逆のベクトルに向かっている感覚さえ覚えてしまうほどなんです。


                                                 \ 正 /

うと ありさ   🪆 🪆 🪆🪆

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またママ好みのブルーです。めっちゃ気に入ってくれてます☺️
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うとは信じた道をゆく。