娘が生後1ヶ月を過ぎたあたりだったかな。

すやすやと寝息を立てて眠る彼女の身体へ手をあてて、はじめてまともに?統合ワークを施してみたんです。

したらば「これからはわたしの手で、娘の統合を進めていけるんだよな」と気付かされて、味わったことのない多幸感が、ぶわぁっと溢れてきたんです。


娘の生きづらさを少しでも取っ払っておかなきゃと、妊娠中は重点的に、固める反射の統合に取り組んでいました。(母体のわたしの反射具合が、お腹にいる娘へ影響を及ぼしてしまうので)


固める反射の統合は第三者の手が必要なので、統合ワーカーさんがわたしへ触れることで、間接的に娘の統合を進めてもらっていたことになります。

ぐんぐんとわたしの統合は進んだものの、残存はまだありまして、娘に必要のない反射を抱かせたまま、世界へ迎えてしまったとも言えます。


「妊娠時代とはちがう近さで、この子へ直接してあげられることがあるだなんて····(じん)」と、しばしその感情へ浸っていたのですが


わたしA「いや、ちょいとお待ちなさいよ。感動に浸っているみたいだけど、そもそも固める反射は出産時に統合されてるのがベストじゃん、というか本来はマストじゃん。今このワークをしなくて済むのなら、その方が良かったじゃん😈」

と、ごもっとも論を主張する輩が飛び出してきました。


わたしB「それはそうだけど····でもわたしの、この手で!娘を幸せに向かわせている、って実感が嬉しいんだよ。えっこれって母親としての性?ある意味で原罪?🥸」


わたしA「そういう手応えが嬉しいのは分かるけど、母親の手応え欲しさに反射が残ったわけじゃあるまいし。統合した上で世界へ迎えてあげられたら、何よりのギフトだよ。せっかく反射の知識もあったのにぃ〜😈」


わたしB「知識も技術もあるから、いま挽回しようと出来るし、取り返しだって付くじゃん、娘は果報者だし🥸」


と夜な夜な、A↔Bのギッタンバッタンなシーソーゲームが脳内で繰り広げられる事態に。


こ····これは!!

妊婦中から統合ワークを受け/かつ/固める反射が残存する子どもを迎えた母親、の元にしか、出現することのないシーソーなんじゃなかろうか。


これから未来に行くに従って、原始反射や統合ワークの認知度は上がっていく一方だろうし、ゆくゆく人類は統合しているのがスタンダードになっている、とは思います。

今はそこへ到達するまでの過渡期なわけで、その時期ならではのことを、思いがけず体験してしまったみたい。


「何にせよ、あんまりグチャグチャ考えながらワークをしてても、娘にとって良くはないよな····」と思えてならなくて、AB共にシーソーからひょいと下ろして、遊具の揺れが平行になるのを確認して仕切り直して、淡々とワークを続けました。


シーソーが現れたのは、その時だけ、たった1度限りです。


うと ありさ🪿