クリーン、シェーブン(映画)批評
タイトル 『クリーン、シェーブン』 著者(監督) ロッジ・ケリガン 出版社(国) アメリカ 出版年 (公開年) 1993(2021) 統合失調症を疑似体験できる作品、そしてその世界で生きていく辛さと不条理が表現されていました。統合失調症の患者とはどんな経験をしていかを表現した作品、その中でもDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)が映画制作に加わっているのが特徴的です。DSMはアメリカの精神疾患に関するマニュアルとして最も有名で権威があるものですので、現実にそぐわない表現はおそらくありません。統合失調症の教科書としても役に立つでしょう。まず、始まりから植物が風に揺れる音が必要以上に大きく音楽が不穏です。ショベルカーの音なども、本来なら背景音として聞こえるものが大音量です。ぐわんぐわんと近くから、遠くからノイズをともないながら聞こえてきます。そして、その中に「見えてるんだよ、ばれないと思っているのか。」「やれよ、今だろ。」「俺に任せておけばいいんだよ。」といった幻聴が聞こえています。幻覚(幻視)もあるかもしれません。鏡を全て裏向きにしたり割ったりすることから、何か怖いものが見えているのかもしれません。もしくは、幻聴によって「自分は見はられている」という思いにとらわれているので、幻覚が見えているのではなく、見られているという注察妄想によるものかもしれません。妄想は幻聴とセットになっていますね。聞こえてくる幻聴はだいたい、自分を責める声ですが、本人は頭に埋め込まれた盗聴器や指の発信機のせいだと思っています。その証拠に周りの人は、自分をジッと監視してきます。とは言えその証拠は、主人公のピーターが窓を割って新聞紙を貼った車に乗っていたり、手が震えていたり、ギョロ目でガン見しているので、周りの人は「なんだこいつ?」という目で自然とそうなるという、自分で生み出したもの。けれど、ピーターはその様子から「やっぱり、俺は見張られているんだ。この声は本当なんだ。頭の中に受信機が埋め込まれているに違いない。だって、皆が俺を見ているじゃないか。」と、間違った確信を深めていきます。ただ、周りの人も変なんですよね。統合失調症の遠因となるようなコミュニケーションの特徴としては、ダブルバインド理論が有名です。これは、言葉は「おいで」と言い、態度は「来るな」という矛盾したメッセージの中で生活すると、混乱して健康上、良くないというものです。映画の中での母親は、ダブルバインドよりもっと強烈です。息子の言葉には応答せず、自分の言葉だけを伝えます。「娘はどこに行ったの。」と聞くと、「どこそこにいるよ。」でも「知らない。」でもなく、「座りなさい。」、「ご飯を食べなさい。」もしくは何も答えず無視です。会話が成り立っていない。統合失調症になるかどうかは別として、悪影響があるのは確実でしょう。物語そのものは、里子に出した娘を探していくというもので、アッとおどろく結末はありません。しかし、そこに至るまでの行動がめまいを起こすような気持ち悪さであふれています。発信機を自分で取り出そうとしたり、胸毛などを無理やり剃ろう(シェーブ)として、血だらけになる場面も出てきます。これらは、病気に対する嫌悪感を生み出すというよりは、統合失調症になった人の世界は、常にこれぐらい気持ちが悪い状態で生きているのだという疑似体験になりました。そりゃあ、統合失調症の患者がこのような日常を過ごしているなら、耳もふさぎたくなるし、目も閉じたくなるし、行動も周りから見ておかしなものになるでしょう。彼の世界が静かで穏やか(クリーン)になるのは、死ぬときしかないとしたら、悲しい世界です。