自分には理解できなかったり異議を感じる発言をする人がいたからって、その発言をなんだかなーとは思っても、そんな発言自体を取り消せとか、議事録からその発言を消せ、なんて言うのは、ふつうないですよね?記録って全て客観的にそのまま残すものだし、気に入らないならこちらはこちらの考えを述べるのみ、法令に抵触すると思えば罪に問うのみ、そして聞いてる各人が何が妥当かはそれぞれに判断して各人で行動を選択するのみですよね?だいたい本人が「間違ってたから取り消します」って思わない限り、そんな強制的に物理的に取り消させるだけでは考えは消えない、意味のない作業だし・・・そういうものだと思ってたら、今週のニュースで、都議会でそうじゃない動き=ある議員の発言が問題だ、取り消せ!議事録から消せ!という動議を他の議員らが出してそれが賛成多数で可決されるという騒ぎがあったそうで、そんなことがあって、そして賛成多数で可決?!動議には法的拘束力はなくて発言が実際取り消されるわけでもないそうで、結果的にはおおごとにとらえないでいいかもですが・・・それでも都民でひとごとでないしすごく違和感を感じて、都民として嫌だよね?なんか放置してると窮屈で怖いよね?と思ったので書かせてもらいますね。

 

 


動議を提出した議員さんたちは、例えば「差別」という言葉を使ってその議員さんが知事を批判したことに対して過剰反応をしているように思います・・・だけど、「差別してはいけない」、という社会通念は法律にもなったけれど、「知事は差別をしている」と言っちゃいけない、のではない。差別だと思ったら差別だと思った人は当然、勇気と責任をもって「それは差別だ」と言えばいいんです。そしてそれが違うと思うなら、こちらも勇気と責任をもって、そう議論すればいいんです。誰だって自分の発言や選択の結果は自分に返ってくるものだし、だからお互い当然自分の力の限り真剣に発言すると思います。だからみんな違うけどみんな同じ。お互いさま。そこに自然と湧き出る寛容さ、言論の自由の土台があると思います。なのに、自分と違う意見を不適切発言ととらえたり発言してはいけないことととらえてわざわざ動議という手間暇をかけて議事録まで消そうとするという発想をもつのは、同じ人間じゃなくモンスターだという恐怖心でとらえ始めちゃったまずい人間心理の現れか・・・しかも多数派が、反論すればいいところをそんなことするなんて、スラップ訴訟的というかなんというか・・・コンプライアンス(法令遵守)だなんだと難しい世相を背景にみんな発言に用心深くなってちぢこまってるのが度を越して、よりによって議論が仕事の重要な一部である議員さんたちが、対立ゆえとはいえ結局は自縄自縛のようなかなり間違った判断しちゃってますよね?『不適切にもほどがある』というドラマを残念ながら全然観られてないのですが、宮藤官九郎さんも同じ問題意識を持ってそうで確認したいです。この動議可決は、なしですよね?
 
お笑いじゃないですが、できない自分でもはりきってツッコミを入れていかないと、と思いました。とりあえずブログで練習です。そのネタがどんなにカオスでも、トム・ブラウンさん、それよりこの動議可決騒ぎというカオスは、ダメーっ!ですよね?