今年になって、自分が書いているブログを信頼する知人には開示し始めました。内気な私が、今まではひそかにやっていたのに。文章が下手とか、意見がおかしいとか、失礼とか、更新頻度がおかしいとか、整合性がないとか、暗いとか、無防備に発言することで私という人間のいろんな不都合な真実が出て、きっと批判や悲嘆、失笑を買って恥ずかしいからと、ひそかにやってたのに。どうして開示する気になったのだろう?・・・一言でまとめると、アラフィフの終活やけくそパワー、でしょうか・・・雑談の機会がもっとほしいという心の声と、現実にはそういう機会を対面でもオンラインでも持つのは手間暇エネルギーがいるという現実と、を掛け合わせた結果、内気さを越えて心を開く次の段階に、やけくそで入っちゃった感じです。信頼するみなさんの、寛大さを信じて。


年を重ねて人生も押し詰まってきたのを実感したおかげで、本音を言いたい、言おう、という勇気が出てきたということでもあります。「反応もなくてもどう思われてもいい」と多少強がりながらでもどんな自分もどうしようもなく自分だと受け入れる覚悟をしたということ。これは、恥じらいをなくした「老害」ではなく、強くなった「老益」ですよね?(老益という言葉については私は『老益 歴史に学ぶ50歳からの生き方』楠戸義昭著 で読みました)

 

刻々と変わる自分自身の波のままありのままに生きたい気持ちを発散しつつ、ゆるく雑談や近況を共有する方法として、みんなが可能な頻度でブログしてつながってくれたら楽しいなあ、とも思いました。書けるときに書けることだけ、書けるだけ書く。読めるときに読みたいとこだけ、読めるだけ読む。受け止められるとこだけ受け止め、反応できるとき反応できるとこだけ反応する。それでいい・・・それが忙しく状況もペースも価値観も何も違う大人同士でも各自がマイペースに、かつ気の済むまで話せる雑談の機会を確保しつながりを感じられるやり方の一つとしていい気がするのです。同時に、経験や思いをせっかく書くなら、仲間内だけでなく、社会の情報資産になったり交友が広がったりする可能性のあるブログという形にしたら楽しいと思うのです。

LINEとかインスタとかXとかフェイスブックとかユーチューブとか、他にもいくらでも方法はあるのだろうけれど、なんかLINEは気づくと過去履歴が消えちゃったりしてるし、インスタは勝手に画面が遷移していろんな情報が入ってうるさいし、Xもなんかごちゃごちゃしていて誰の発言だかどれが最新だかよくわからず読みにくい感覚があって苦手だし、フェイスブックはしばらくログインしてなかったらなぜかメモしてた通りに入力したのに「パスワードが違う」じゃなくて「そんなアカウントありません」と言われてなんかもう怖くなっちゃったし、ユーチューブは観るのはいいけどまず投稿は動画がなくてはで手軽にはできないし・・・ブログなら書くだけでも、あるいは文章でなく写真や動画の投稿でも手軽にできるし、そんなこんなで書きたい私の場合は、ブログがいまどきの方法の中では一番落ち着いて楽しめる自己放出の場なんです。

 

一人、実際にチャレンジしてくれた友がいて、いいね!しかできてないけれど、新しいつながり方にこちらは一人静かにうれしくて胸アツになってます。有難う!

遊びをせんとや生まれけん、しょせん遊びのお誘いではあり、無責任に呼びかけます。ブログ、しませんか?

 

(珠洲原発計画をなんとか阻止してくれた約30年にわたる住民運動への感謝と尊敬の気持ちで胸アツが続いている)

(武器に頼らない人生をかたつむり的速度で模索中)
(原発に頼らない人生をかたつむり的速度で模索中)
(反出生主義にさいなまれ中)
(寝食時以外なるべく座らない生活実践中)