1-1* | dramatic —愛おしき日々に感謝の意を。

dramatic —愛おしき日々に感謝の意を。

ほかのひとには真似できない人生を、ありがとう。

傷だらけだった10歳の私を救ってくれた恩師へ。
ことあるごとに私を支えてくれたすべてのかたへ。
そして、私を傷付け続けていた、あなたへ。


1989年。
平成の世になってまもなく,私は大阪の病院で生まれた。
“在芽”という名前は母が付けた,ということを幼稚園の頃に本人から聞いたことがある。


生まれてからの約3年間を大阪で過ごしたあと,

私たち一家は弟ができたのをきっかけに奈良へと引っ越した。

そして私は町立小学校の付属幼稚園に通った。


小麦粉粘土でおままごとをしたり,ビニール袋で作ったスカートを穿いて

セーラームーン(当時の私の憧れ的存在だった)ごっこをしたり。

ほかの子とは何ら変わりはなかった。まだ,この頃は。


私の母親は類を見ない完璧主義者で,私に対しては少しのミスも決して許さなかった。
口癖は「なんでこんな簡単なことができへんねん」。

よく近所の同じ年の子とも比べられたりもした。

少しでも私の劣っている所を見つけると必ず「もっと努力せんと」というようなことを言われた。

そして,……時には手もでた。


私の中での一番古い記憶は,母親に殴られながら,罵りの言葉を聴かされている場面だ。

何年も何年も私は耐え続けた。


必死だった。


抵抗する体力も気力もなかったから。
治っていく体の傷と引き換えに,心に傷が生まれ,それは今でも消えることはない。
それどころか,次から次へと増え,静かに蓄積されていっている。

 「なんでこんなこともできへんのやぁぁ!!!」
家の中で,ヒステリックに喚き叫ぶ母の声を聴き,痛みを堪えながら,私は必死に祈った。

早くこの状況がなくなりますように。お母さんがこれ以上怒りませんように。

痛いとも,やめてとも言えなかった。

言ってはいけないような気がした。

私は殴られるほどの悪いことをして,だから今その報いを受けているんだ,と

幼稚園児なりに考えたりもした。

母は昔からよく「お願いやから普通になって」と私に懇願していた。

それは現在でも変わらない。ずっと母にこんなことを言わせてしまう自分を,呪った。


普通になりたい。これは私の一生涯の願いだ,きっと。