(日本の夏は寒天(笑)でしょ、すでに豆かんですらない(笑)
きな粉と黒糖シロップで食す。

夏の食卓は信楽ブルーや青磁の器に限ります)







坂東玉三郎の、西洋と東洋の舞踊(≒バレエと歌舞伎、とかですかね)を比べた言葉

「西洋はジャンプ、飛び上がることに価値を置いていますが
日本の舞踊は着地に重きを置いてる(ドン、と音楽に合わせて床を踏むような)」

を思い出しながら書いています。





以前にも海外で活躍する芸術家さんから

「発想力は西洋、それをまとめて形にするのが日本」

などと聞いたことがありますが


コロナ後に顕著になった「日本人の保守的な、間違いのない」みたいなものに重きを置く感覚、概念には時々元気をざっと奪われることがある。



玉三郎の言葉を借りるならば、

ジャンプがあって着地の美しさがある、でもジャンプが出来ないのに着地ばかり練習してる日本人・・・



と思うようなことが多いのだが





以前、「素人の潜在能力、自己表現の可能性を引き出す」海外コンテスト番組の話を書いたのを覚えていますが


日本のコンテスト番組はほぼ「間違いなくできるかどうか」、であるのに対し

海外のコンテスト番組は素人がどんどん成長し、育っていく姿が楽しい・・・


と書いた記憶がある。

まさに着地ばかりの日本を表し、価値観の固定化に走る姿を如実に表していますが

完璧な細かい技を施した工芸品に時々感動より疲労を感じるのと同じで
失敗がないを極めている姿は観ていて疲れることが多い。

最近は「失敗がない」を教育の中心的価値観にして、型通りやる、いい奴隷を作る風潮が重んじられているのだろうなあ。

こんな日本で、何かが生まれるという雰囲気が感じられないのは当たり前なのかも。




というのも

この間、某海外お菓子作りコンテストの続編があって、

日本人の視聴者に人気が高かったのは

いつも知識自慢、コンサバで生活やバックグラウンドの見えない、一昔前のレシピ本に載っている作品を【大きな失敗無く作る】ことだけしてた、一人のゲイの老人だった。


きちんとした物は作るけど、まるで一昔前の製菓専門学校の課題制作みたいな作品群で、審査員の忠告も右から左、ずっとそういう作品を作り続けてた人。

大きな失敗はしないので決勝に残り、多くの日本人は彼が優勝だろうと噂していた。




私にはその人の作品は、技の披露、誇示のため、というふうにしか見えなかった。

その偏り、なんか理由があるだろう、と思っていたが、最終回直前になってゲイだということが分かり

・・・それで冒頭から若い女性の出場者に敵対心むき出しで、勝つことに固執し、非難されても怒りむき出し、話が聞けない、コンサバで立派な作品を作ってただ認められたいのだな・・・でしたが

この人が優勝はなんだかなあ・・・と思っていた。

自己表現、ではない、という感じすらした。




例えば「アップルパイを作ってください」でも、スパイス好きな人はスパイスに拘るだろうし、切り方ひとつ、リンゴの品種一つ、大きさ一つ、パイに混ぜるもの一つ、バックグラウンドが出るものだと思う。

でもその老人は教科書通りに作って上手、とか凄い、って言われたいだけなのかなと思ったぐらい、毎回何が好きなのかがわからなかった。

金も時間も余るほどありそうな暮らしな感じで、そりゃあ失敗しないをするのは簡単かもなあとすら思った。


そしてそんな失敗のないだけの作品作る挑戦者がもてはやされ、推し、になっているのを観ながら、日本にいる悲しさみたいなのを感じていた。




審査員も途中から非難もなく、言葉短く称賛するだけだったので

行く末を見守っていたのだが




流石海外のコンテスト、



その審査員の評価一つで「優勝者のその後」が決まるだけではなく、

審査員のレベルも評価され、

番組の格も決まる、


【世界の素晴らしいお菓子のレベルも決まる】

のをよくわかって審査しているのだろう・・・



そう思いました。


=ジャンプ(今現在の最高峰)が評価の基準、っていうのをまざまざと感じた。





最後の最後になって老人を褒めてばかりだった審査員が

「準備ができるものや教科書通りのものは作れるのよね・・・」
みたいなことをちらっとだけ言い、


創造性に長け、自己表現をやり遂げた作品を最後に作り上げた若者に栄冠は渡った。






その後日本では、番組の結果に、なんで老人の優勝じゃないの?という人が続出し

私は「あーー 出来上がった価値観とか、失敗がない人が勝つ、って【奴隷度】のコンテストばかり見ているからかもしれないなあ」

などと思いました。


私には明らかに、老人の目的が「自己表現」というより「コンペで勝ちたいだけ」みたいな感じだと思っていたので、審査員の判断に流石だ、と感銘した。







そもそも

今の日本は、

失敗してもいい、ジャンプの高さを出すために努力するとかを、なるべくやらせようとしない。


でもそれを、つまり【失敗しない】を最高の素晴らしいもの、と芸術の世界で評価基準にしたら、レベルは低いということなのだと思います。





この世に生み出す芸術作品や自己表現というのは、世界の人のワクワク=幸せ感に影響するし、世界の光に影響するし

それを生み出すかもしれないコンテストは世界の感動の価値観、レベルを問うものになる
・・・ある種の責任感をになう

ということが、日本には少ないのだろう。





私はあの番組の審査員が、世界の感動の代弁者とか、それぐらいの意識で選んでいると感じた。これがいわゆる世界基準、なんだと思う。


「世界基準」というのはそれぐらい周囲に対して自分の行動に責任を持つ、ということなのだろうけれど

日本人のいう世界基準、というのはほぼ嘘の意識というのが
コロナの対応でもよくわかってしまったし

(感染症対策と称した行為は実際は病を増やすことばかりだった)

こんなコンテスト番組の反応、感覚にも表れているのだろうなと感じました。




育てられていない、という人が
日本には多くて、

ああいう一人で努力し、劣等感のために完璧に作り上げるだけの力の誇示に生きる老人が見抜けないし好きなのは当然なのかもしれない。

今の日本にはこんな感じの人が多いのかもしれません。


でも自己表現できない、高いジャンプの努力をしないで確実な着地ばかり意識する、は

世界中から低く、甘く見られる、
快楽の基準が低い、楽しくない人・・・・、などという評価をされ

近くの子供から、世界の人々まで、
見下されることに繋がるのではないでしょうか。




最後に玉三郎の至言を。

「型破り、というのは型を覚えて極めた人だけが出来る、

型もないのに突飛なことをするのは型なし、という・・・」



ジャンプもしないで着地の練習ばかりの人生は送りたくないものです。


向こう側に誰かを想う人の見えないお菓子は食べたくないものだ。


・・・・ではでは。