(きれいに焼けた餃子がうれしい)







買い物の帰り道、横断歩道を渡ろうとしてなんだかな、ということを体験した。

 




片側2車線の、交通量の少ない広い道路の途中の横断歩道で、

手前側2車線は車は来ない、向こう側の2車線は追い越しも走行車線も1台づつ車が来ていた。



私が渡ろうとしたときに、一番私から遠い向こう側の走行車線のスポーツカーはまあまあのスピードで横断歩道を走り抜け、より私に近い追い越し車線のゴミ収集車は止まった。

私は、まだたどり着くまでに距離があるのに、車が横断歩道手前で止まって待たれるのが嫌い。せかされるような感じがダメ。

ロンドンの街中みたいに「赤信号でも来なかったら渡れ」とかが好き。

私が危なくない程度に走り抜けてほしい、とよく思う。


で、↑に書いたときは、完全に走行車線の車は「走り抜けて全然OK」なタイミングでした。

だからなんも危険だと思わなかったし、逆に「空気読めてる」ぐらいな感じで何も思わなかった。

渡る人は私のみでした。






ところが、その行為になんと追い越し車線で停車してたゴミ収集車がクラクションを数回、鳴らしたんです。


もう、そのスポーツカーははるかかなた。聞こえないでしょう。

逆にその派手なクラクションが神経に触りビビった歩行者が数人。私も初めてそこでびっくりして何事、って思った。


大きく目を見開いた、歩道を歩いていたおばあちゃんと目が合う。



近くには家もいっぱいあった。



私はあきれました。



最近、こういうこと多い・・・・。

・・・・関係ない他人が介入してくる、それが逆に世の中の迷惑や雰囲気の悪さなどを生んでいる、みたいなこと。





この間赤穂浪士の討ち入りを待つ元藩主の歌舞伎の話をしたけれど、

私はこの場合、御家断絶になった赤穂の藩主で
スポーツカーが討ち入りに入られる藩主とすると
ゴミ収集車はその争いごとには関係のないお隣の元藩主、ですね。




追い越し車線のゴミ収集車は市の委託を受けた業者で、危険な運転を絶対しないように注意を受けているはず。クレームが入ったら市から指導が入るだろうし別の会社に仕事が奪われる。だから絶対安全運転をしてる。


もちろん私により近かったわけだからそのまま進んだら危険なタイミングだったと思う。

でもその向こう側のスポーツカーは逆に無理して止まったらスリップしてたかも、だし、
横断歩道の一旦停止はあくまで私が危険に巻き込まれないように、が最大の目的だから

タイミング見計らって走り抜けてくれて私は良かったと思う。




それに対し、なんのクラクション?

そのクラクション鳴らしていいのは、横断歩道渡ろうとしてた私だけじゃね?

って思いました。




意味のない関係者(かどうかもわからない)の介入、がほんとにコロナ後、うざい。

他人の行動に難癖付けるのが先で自分を顧みない、非難で暇をつぶす的なことが多い感じがする。




接種の有無で職場で冷遇されて退職した、という消防署のニュースを聞いた時もそう感じたが、

個人的なストレスを解消するのに時代の雰囲気を使うとか、「ザ・常識みたいなもの」を使おう、みたいなのが多い気がする。





他人の行動を気にして非難するのに躍起になるとかより、その行動が気になる「自分の中の理由(投影の存在)」に気づくっていうのが神の求めるところなのかも、って何度も思います。


ごみ収集車の運転手は、死ぬほど常識とかナントカをいい子でやっている人で、ストレスが多いのだと思います。


でも、介入して怒りをぶつけて暇をつぶしたいのかな、です。

自分を反省するなんて怒りが満ちてたらできないから。

さらには世間的にいいことして褒められたい、でしょうか。

・・・被虐待やインナーチャイルドの荒れた人がどれだけ多いかを感じさせる。




自分の定規を世の中の空気に乗せて、「世の中の基準」にしようとかする、みたいな個人的ストレス解消には疲れる。



認められたい、みたいなのは水瓶座の時代の影響かなとも思うけれど、

凄い水瓶座の人は社会の声など無視して自分を掘削する人です。
=今は多くの情報に流されないで、自分を掘り起こすが有益だと思う。




多様性重視、などと言いつつ、一方では、価値観の固定化もすごく躍起な空気を感じる。だから介入してくるのだと。



自分に自信がなく、
自分は何が好きとか何に価値を感じるとかが分からない人が多いのかなぁ、 なんて思う。




何かに本当に夢中な人は他人に介入などしない。


他人の監視とか非難してると、自分を見直す時間が減る

のは確か。


そんな世間の価値観の中で生きようとするから、伸びないし、軽く見られるのだと思う。




自分の価値を上げたり認めさせたい目的で「これが正しいよな?」みたいなこと言われても、

却ってうるさがられて迷惑になっているのは↑のクラクションが示しているとおり。






こんな小事を挙げるとキリがない。


「どんな目的で行動がなされているか」を観てみると、悲しいなあ、と思うことがある。




愛が足りない話です。



元の原因は家庭とか幼少期にあるのに、最終的に法律とかナントカで裁かなきゃいけないような生活上の小事が増えたら地獄だと思うのは私だけでしょうか。



個人的なトラウマケア目的で人を常識で裁く、っていうのは毒親の特徴的な行動パターンだが、今や世界を歩いているとそんなことばかりに出会う。



キレイごとの裏側が私は嫌いです。

その底には、幼少期の親の支配があるのは間違いないでしょうけれど・・・。




・・・ではでは。