私が見ていた韓ドラはコロナが始まりだした年の制作らしい。
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もっと古い作品だと思ってた。
一番驚いたのは脚本が「夢物語」みたいだったこと。
子供の自殺は親が子供のひき逃げ事故を隠ぺいしたから。。。っていう話だったけど
とりあえず因果応報を描いてたのはよしとして
ゴールでは、結局女の子たちが皆「優しいお金持ち」と結婚して、
私たちの世代でいう「ハーレクイン」なのだなあと思った。現実的かつ理想的。
我々世代の「ドラマティック」、といえば
数年前からヤマタツとかから渋谷系ぐらいまでの「シティーポップ」が全世界的に流行っていると聞いて、
そういえば「最近の歌ってどんなの?」とか思っていくつか聞いてみたことがあった。
最近の歌は、多くの情報に囲まれているけど凄く狭い世界での小さな話、とか、その多くの情報を整理した結果のやたら高みを目指そう、になってとかの応援歌や意識上げていこう、みたいな歌が多いのかな。
どんな人が出てきてどんな場所で、みたいなイメージが残らなくて一曲も覚えられなかった。
今の歌と、シティーポップの大きな違いは、
シティーポップの世代の歌は「恋愛とか見知らぬ他人や世界に対する期待や夢」が基本にあって描かれている。
いわゆる「雰囲気がある」、なんだと思う。
今の歌は・・・・大人が色々試した上で知るような大量の情報を聞いて、
外の世界に夢も持てないし飛び込むのが怖く、恐怖だらけの人が出来上がり、
小さなコミュニティーとイメージに生きてる世界・・・・
が描かれている。
夢、ゼロな感じ。
意外性の無い世界で描かれてる。
その昔、「TVは友達とは違います、困ったときにTVは助けてくれない」みたいなことを聞いたものですが、
最近の文化に触れていると「TVやネットみたいに人と付き合う」みたいな人付き合いの感覚なのかななんて感じる。
他人に対する信用とか希望や、深く理解しあおう、みたいなエネルギーが薄いのかなあ、なんて。露骨に飢えた大人の世界だけの話ではなく。
特に都会はエンタメに行くためだけの友、知り合いって多いのかも?
そういう独特な浅さが最近の歌にも表れている感じがした。
そんな夢も希望もない世界の隙間に現実的な夢と極端なドラマティックの韓ドラが入ってきているのかな、と思ったが
お金持ちで優しくて親は大切に、失敗したら自殺・・・・みたいな世界観を観て、シティーポップはもっと地に足がついた夢だったと思ったりした。
向こう側に、自由に向かって夢を見ながら同志を探し戦う人々ががいたような気がする。
それが無駄な夢想で戦いだと言われ続けながらも。
情報化社会と言われて久しいけど、頭でっかちでなんもかんも研究されつくした、みたいな冷めたエネルギーが何も生んでいない気がするけど、夢に対し脱成長してしまった感、は悲しい。
今の時代の閉そく感はこれかも。
情報でがちがち、詳しい人ほど、意外に世間知らず、みたいなことが起こっている気がする。
ヤマタツとかオフコースとかシティーポップの歌が流れてた頃もミュージシャンってみんな「ビートルズのコピー」とか言われ続けてたと思うけど、
ある方向から見たらビートルズもよくみる普通の人。
「ビートルズのコピー?バカヤロウ!」、って言い続けて自分の内面にアクセスし続け夢見た世代の歌が今残っているんだと思う。
外側の情報を無視し、内側にこもって自由を夢見たり、本質的に・地味に一歩一歩目指していくって大事なことだなと思います。
これは歌の世界だけに限らず、人生全体に言えることだ。
スマホが普及してネットで情報があふれ出ていても、自由や創造はあなたの魂が根っことなって生み出すのですし、情報機器が普及したことで、芸術世界の想像の世界が狭くなっているのだとしたら悲しいことですね。
意識は育てられない、・・・坂東玉三郎の言葉が染みるなあ。
細かすぎると障害とか疑われたり、
ちょっと細かいことや好みを主張したら、いろいろ言われる始末。
多様性を、などと言いながら、実は逆行している現象がそこら中にある。
今の現実世界で夢見るには何が必要か、は
一部のシティーポップがなぜ廃れていったか、をもっと深堀することだと思いますが
現実世界で夢見ようなんて言う元気な人がどれぐらい残っているか、と思いますが
世の中ちゃんと夢見て叶えている人はいるから。
それを信じていくしかないですね。
きちんと他人との境界線を築きながら。ではでは。