「虐待の連鎖を止めるには「被虐待の経験」から語らない、別の意識の山から育児をイメージすることが必要」という記事を前に書きました。




虐待、毒親の影響から自由になること、というのは、

思い出さなくなる
という意識状態になる


=「記憶ケアが完了すること」

にほかなりません。






これは、「低いレベルの話の人生や意識の世界から(自然に)脱出する」ことです。

別の場所で全く別人になって、目的の新たな人生を築いていくみたいな感じです。

虐待や犯罪などの基本やレベルで人と接することを構築しないことです。





よくSNS上では、同じ毒親問題を抱えた人でも、目的が同じ人が集まるんだよなあ、って思う。


被害や怒りや自身のエゴを正当化したい、というような被害者の集りは盛り上がっている。

当事者たちにはまたとない孤独癒しとストレス解消の場となっているのだろう。


問題解決という目的という感じはしない。その山にいる限り。
自己肯定目的、という感じがする。



傷ついた直後は誰かに悪くないって言ってもらいたい、
これは解るけど

なにか起こったあとは、その事件に何かしらの人生改善のサインがあります。

人は完璧な心をもって生まれているわけではない。
心を磨くための凄いヒントが事件の中には含まれている。

そこを冷静になって見極めないとエゴ(我欲)の餌食になります。


だから、自己改善のための情報収集ではなく自己肯定、固定化のためのSNSは要らないと思っている。








確かに子供はなにも抵抗できなかったりするし、大人の毒親の攻撃はOUTですけど

ああいう酷い状況が無ければ実家に居座る依存的な子供のまま大人になるとか起こったかもなあ、

と別の角度で見たらそういう想像も出来ると思う。



仲良し親子では磨けない何かってあると思う。

自分は悪くないと思うのは、毒親と同じ心です。自己肯定心があるから虐待する自分に疑問を持てない。


辛い経験は確かにあった、
それは確かだけど


同時に手元に来た「自分の祝福」に気づけないと地獄です。








周りでトラブルや嫌なことが起きる。これは「サイン」なんだと思う。


人間は不完全で、修正するために地球に生きているというのを信じている。

多くの人がやっているから正しい、とかそういう小さな勘違いは無数にこの世に存在する。

だから、トラブルが起きた時に「誰かのせい」「自分は悪くない」としてしまうのは私的に無いです。


絶対「何かを突っ込まれている」








・・・・などと思って

色んな人のエゴ祭りっぽいSNSをスルーしていますが



削除の途中で「やっぱりか!」な出来事。

引き戻し、と言えるのだろうか。こういうのも。







劣等感と怒りを抱えている感じの毒親育ちが


過去に攻撃してきた人に「口撃で仕返ししてあげました」報告をして、それがバズっていた。





毒親の虐待に耐えてしまう人は、同じように人生で次々と口撃に遭ったりするので、
「あの時言い返せばよかった」って、悔しい思いをすることは多いけど

いざ実際、口撃出来るような体験を出来るようになったところでむなしいものだと思う。


・・・・これは実体験の話なんですけど。






同じような低いレベルの人の世界に堕ちて口論で論破、は、
出来ると最初は
「言い返せた!悔しい思いをしなくて済む!」とか思うものだけど


被害受ける予測して、心の中で口撃訓練する虚しさ、って


トラウマケアをした後の身から言えば、何か変な神経や筋肉鍛えてたなあ、でしかなくて。



まあ、要は戦争エネルギーなんですよね。

豊かさとか快適さを鍛えているわけではない。

常に戦いの世界が前提の人生。


平和と防衛、抑止力の話の違い。



今私は基本的に厄介な人とは時間を共有しないし、隙もあまり与えてないので寄ってくることはなし、何か厄介ごとを言われてもほぼスルーします。

「そうですか~~」、です。で、離れていく。



そもそもライフワークなどがあれば、そのための人生の時間が多くなって、相手は介入できなくなってくる。

珍しくたまに怒るときはまだ、相手に希望の光はないかなぐらいな気持ちがあるときだけ。



他人はそう簡単に変わらない、を十分に知ってしまったのと

低いエネルギーがのっかった獣のような人の世界で戦うことに意味はないと思っています。




こういうの、・・・サファリパークで車から降りて獣相手にする、みたいに感じる。




付き合ったら付き合ったで、その論争が勝ちや負けを生んでも空しく、いずれにせよネガな記憶や相手に支配された行動であることに変わりはないと思います。





トラウマや親や社会の抑圧に気づくと、怒りが抑えられなくなるのは当然の流れだと思いますが、怒りに乗っ取られた人生もまた、獣と化すと思う。

怒りは一時的なデトックスという概念が大事。


出すだけ出して終わらせて、全く他の人生目的を見出すことに集中するが大事。怒りが何かを解決し続けたり作ったりしない。情熱ではない!



攻撃や他者支配が目的になって喜んでしまったら、困難のいい奴隷だと思います。




「虐待の連鎖が続くシステム」について書いたときにも話しましたが

困難のリアクションは、結局、困難を生み始める。

困難が種だから
、です。



困難を乗り越える、という段階ではなく

楽しいとか快適とかをテーマに人生を考える段階が、

本当の困難解決です。



それには、自分の行動や感じ方が変わることだと思うけど

「相手が変われ」「自分は悪くない」と言っていると、ストレスで我慢している人の弱い者いじめのいいターゲットになるだけだなあ、と感じます。

相手は寂しいとか暇を埋められるから、で利用しているんですよね。・・・実は被害者も。




この孤独を癒したい・自己を顧みない「毒親被害者」とか「虐待被害者」などは、自分が「加害者予備軍」、もしくはもう一部の人は被害を受けているだろうことを知らない。

イメージも出来ないのだろうと思う。

(この種の人々に向けて書いたブログが「トラウマよりも問題なのは・・・」という話です)




こんな「攻撃のコミュニケーションの世界」を観ていると、小さな戦争は絶え間ない、外国の戦争のことを話している場合ではないなあ、と感じてならないです。

「寂しい」って最大の爆弾
かもしれない。


孤独記憶って凄い。


孤独を埋めるために人は社会へ出向いて、一般的にいいと言われていることを過剰にやってほめられたいとか認められたいとか自己判断で延々やるのだけど、

酷いと他の従業員はそんな他人の行動がうざくなってきていじめだす、とかいっぱいあるよなあ・・・


でもご本人は非難されるといじめだ、私は悪くない、です。

こんな仲裁に、私は何度か引きずり込まれそうになったことがあります。




こんな「孤独埋め」に人生を使うのは悲しいが、結構いらっしゃると思う。


「孤独記憶の判定」については過去記事などを探してください。

・・・孤独記憶が作られるのは「一緒に暮らしてた」「親はそろってた」とかが重要ではなく、
「愛の質」が低いことの方が大きい!・・・・

です。


ではでは。