(沈丁花は小さな鉢だがすごく良い匂い。
一昔前は五月雨の頃の花だった気がするのだけど
東向きのベランダでは2月末には満開になる。)






最近80年代位の映画を観ると

「うーん古い(笑)」

って感じることが多くなった。


映画も一つの社会催眠ですね。

タイトルは忘れたけど
ジャック・ニコルソンが売れてるけど実際は変わった人、という小説家の役をやっていた映画は

発達障害の子持ちのウエイトレスに医療費を出してやったり
近所のゲイの画家が強盗に襲われたあと自分の家に居候させてやったりと

「男はお金出してやるのが役目」みたいな映画だったが
流石に笑ってしまった。

男はお金、女は男の変わった所を我慢して抑えるのが仕事、みたいな洗脳に感じた。

当時専業主婦みたいな層に向けて作られていたのかと思った。


シャーリー・マクレーンの「愛と追憶の日々」は
毒親な母親が、毒をゴーイングマイウェイの後
娘がガンで死ぬ、も

好き勝手する親の行為は愛ですよ、みたいな洗脳だと感じたし

毒親が社会的に養護されてたよなー、
って思った。

あれを観て「社会的毒親肯定」が勧められていたのかと思うとゾッとする。


この間ジュリア・ロバーツの「プリティ・ウーマン」がやってたけど、今見るとチラ見でも凄い映画だ。

ジュリア・ロバーツの魅力の影に隠れたハーレクイン・ロマンスなだけだもん。



テレビも映画も映像というのは

「社会とはこんなモンですよ」
「人生とはこんなモンです」

みたいな催眠になる。


人生を俯瞰したり息抜きがしたくて入った映画で実は奴隷洗脳されてるのだ。


そして、もっと忘れてはならないのは
毎日見ている家の中の出来事や、景色。



この目撃こそが、

なんとなく

「大人になったら結婚するのだろうな」とか

「大人は死ぬほど働くもの」

みたいな概念を作るのだ。


その上毒親家庭に育ちようものなら
親は子供を奴隷にすることぐらいしか考えてないので

「将来世界に向けて何がしたい?」

などと絶対に子供に質問することはない。学校も同じだ。

それで「なんとなく見てきたもの」から未来をイメージすることが多く、

ホントはしたくなかったこと 

や 

しなくてよかったこと

流される人も多いのかもしれない。


そこで追い詰められ、自己肯定に走ると
毒親と同じ自己愛性パーソナリティ障害、などに
実は毒親ジュニアはなりやすいかもしれない。

自分を否定しない、というのは
自己愛に流れるもっとも栄養豊かなエサだ。

自己愛の親は必死に努力してきたが認められなくて、自己肯定しないと死にたくなる、みたいな習慣行動が偏って「自己否定・反省しない」になっているのだ。





ここで「まず」大切なのは、トラウマが何かとか虐待の程度とかではなくて




被害者も加害者も

自分のしたいこと」

がはっきりしてたらいざこざや問題は解消されていくという事。


どうも上手くいかない運びになる、みたいなことが繰り返したとしても、

それでセラピーなどが必要になったとしても、


この「したいことの有無」は大きいと思う。


この「したいこと」がレベル低かったり、はっきりしてない人が、いつもストップかけられることが続くのが人生なんです。


高い目標があっても実は潜在的に「寂しさを埋めたいだけ」だったりすると、ほぼ目標に到達しないばかりか、どんどん問題が大きくなっていきます。




そして我々の世界には映画みたいな洗脳が渦を巻いていて

その中に

個人に向けて

心の底からの願望=

「何がしたいの?」

と聞いてくれる優しい神様が外側にはほとんどいない
ということなのだ。


被害者や加害者の世界で生きるならそれも自由ですが

いつも何か事件が起きるのを
加害者が減らないと、という話だけで語るのには限界だなといつも思います。

LBGTQの話も、虐待の被害者の話も、政治の話も、
「外側や相手が変わらないと」
って話ばかり。

そんなレベルの他の人間に意識を向け続けると
自分の人生は乗っ取られる、

というのははっきりしてる。

自分が自分の周りの世界を創る
最大のチカラ

だということにはかわりはないので

トラウマや孤独記憶を癒やして
世界催眠から自由になって欲しいと願わんばかりです。

外側の世界は攻撃する人ばかりではないから。



ではでは。



(数年前に書いた「似たような話」、こちらからどうぞ。)