(今年は春の選定が甘かったわけではない。
肥料をやった記憶もほぼ無い。
しかし、恐ろしく伸びてしまったパキラ。
もはや観葉植物の域を越えて、大木になってきた(笑)

今年は療法室にいろんな人が来て賑わって、
私も楽しんでいるから、観葉植物たちもご機嫌のようです・・・

たーだーし(笑)
もう一葉二葉伸びたら天井に届いちゃう~~やばい!)










最近、この一年で起きたことを顧みている。


この一年、結局私は、いろんな人の公私に渡るケアをしていたようだ。

もちろんそれによって一番ケア出来たのは自分です。



でもこの一年で、はっきりとしてしまったことがひとつあった。





私がこの一年で表現し体現し
伝えてきたことの神髄は、

人間らしい思いやり、というか、
人間らしさ、だったように思う。



あまりにも理不尽というか
人の心を土足で踏みにじるような出来事ばかりが
当たり前のように横行し

またそれになすがままになる人の群れに次ぐ群れ。


優しい人々がみんな傷つき、怒り、
叫んでいるのを、
私は、
元に戻したかった。


これは無意識層の声、で

実際今年一年やってきたのは、ただの宴会やパーティー、だ。


ただ楽しんでいた。飲んで食べて、客を一人でアテンドして。



でももう、その季節は私の中では終わり始めている。



最近、もっと面白いものを見つけてしまったからだ。





これだ、と思ったのは、

芸術の話をしていた時だった。




私が芸術、特に絵や音楽が好きなのは、

「よく観ているなあ」とか
「細かいことに気が付きますね」
「凄いことにたどり着いているなあ」
「やりたい放題だ」

みたいな瞬間に、
心が満ちてくる感じ、・・・


「愛」?って奴なのかもしれないし

「人間らしさ」の究極形、みたいなものかもしれないですけど


こういうものに比重を置いた
時間を費やしたいな、
という

心、だった。






芸術にまつわる話をしていると、

大切な、人としての自分、・・・



例えば、
催眠業をやるしかないなあ、

みたいな流れを感じ、
静かな決意をしたときの、

ああいう大事な瞬間や、


事細かい、繊細なもの=人の心を扱いたい、

っていう心、



それこそが

自分の願望なんだ、

快楽なのかもしれない、



なんて思う気持ちを思い出す。




こういう会話を最近は出来る人と話している。


芸術の細かい話に心が満ちてくる。



人らしさを取り戻す、みたいなことが起きて


生きている、って感じがするし、



人というのは本来こういう、
・・・


事細かな思いやりとか、

ダイナミックな創造性を発揮して

人を楽しませたりする生き物なのではないだろうか

みたいな

当たり前の本質を思い出して、


嬉しくなってくるし


人としての自分を取り戻すのだ。








表題に、「戦争に反対する唯一の手段は。」と書いた。



これはピチカート・ファイヴというバンドの
CDのタイトルをそのまま頂いた形ですが、

私は、
快楽の道を進んでいくことが、
結局、

戦争に反対する唯一のことなのだと

今は思っています。



私にとっての一つの快楽は、

芸術の話を共有できる人々と過ごしていくことなのだろう
と思ったし、


そういう人々と出会えたのは、
この理不尽な社会の出現だったことには間違いなく、

本当に感謝している。


そして、前回も話したように、

芸術の創造性に溺れている時、

人間はとてつもなく癒されているから、

凄く身を守れていたりするのです。





危険情報に踊るなんて誰だって簡単に出来ること。


快楽を見つけ知るのにはコストも時間も才能もいる。

そして、記憶のなかの快楽の量は、
人の価値を決めていたりする。



徹底的にカッコイイレベルのセラピストにのし上がるために(笑)

私、芸術に溺れて生きます。



皆様も、快楽の探求を、こんな閉じた世の中だからこそ、是非、行ってください。


お勧めします。