(銀座シックスの「タマリンド」に再来。
なるべく違うお店を体験したい、けれど、忙しいヴァカンスだったので、
通し営業のクオリティーの高いこのお店に行くことに、・・・
なんていうことのない洗練されたインドカレーに思わず)
よく、「他人の悪口は言うな」などということを聞きます。
私はいつもこの言葉を、牡牛座の正直な心で受け止めて、「微妙な言葉だなあ」といつも思って聞いています。
なんで「人の美点を見いだせるような人間になるのが理想だよ」じゃないのかな、などと思ったりしています。
「他人の悪口は言うな」という人も結局どこかで、誰かの悪口は言っていたりするし、
そういうのが人の姿、なんだと思います。
みんな魂の修行中、なのだから。わからないことだらけで当然。
別の言い方をすれば、人それぞれ育った環境からの偏りや好みがあるっていうことです。
そして、偉い先生の「他人の悪口は言うな」(”客観的なこと”)をいい子にやりすぎて病気になって狂っているような人を職業柄よくみたりします。
こういう実に曖昧な、説明不足な命令文句・言葉を、
いかにも立派な真実だというあのエネルギーが私は嫌いなのかもしれない。
一番尊重されるべきは、個人の自由意志だ。
「人はみな未完で、好き嫌いがあります。
他人を基本赦して、なるべくいいところを観て付き合うということが有意義だし、
他人の悪口を言えば、自分の品レベルが下がるので有意義ではないし、良くないことも引き受けるし、結局無駄だということですが、
どうしても誰かのどこかが嫌いだ、と感じる自分も赦して生きることです」
結局悪口からサヨナラするには、ほんとうの慈悲、が生まれることなのですが、
そんなレベルの高い、時間もかかる訓練を、
「悪口を言うな」
という一言で起こさせようとしている、という点が、私の中で違和感を起こす。
みんな、ゆっくり学んでいいのにな、って。なんでもやってみて、体験して、自然に身につけてしまうことなのにって。
こういうことがきちんと理解できてはじめて、心が広くなっていくのではなかろうか、
などと今は思っている。
ほんと、「学費を使わない」空気、蔓延している。
・・・人はもっともっと問うたり迷ったり冒険したり試したり、
自由にして良いんだ。
・・・
先日、近隣の駅近くの、個人の古い居酒屋に入る機会があった。
足の悪い70代なかば、と言っていたきれいな声のお母さんが、手際よく一人で切り盛りしている、正直女子一人で入って行くような店ではないところだが、
そのお母さんの話を聞いていて、「こういう人こそが、魂の教師、街の聖人だ」と深く感動したことがあった。
それはどんな人の「悪口を言うな」というような言葉より私には説得力が有った。
その居酒屋の近隣にある古本屋さんが最近、新しく建て変わっていて、その古本屋の主人の話を、とある常連客とお母さんは話していた。
古本屋さんのご主人は、お母さん同様老齢で、やることが多分無いから、その辺りをいつもパトロールしているのだそうだ。それは、悪い意味で。
その辺りの敷地は、その周辺の大会社がよく使うために買い取っていて、公道、ではなく、正確には大会社の私有地なのだが、見た目はまったく公道と変わらない。
その私有地に、近所のものがちょっと荷物を置きにいったりするために、路駐するとすぐ、古本屋の主人は警察に通報するんだそうだ。
しかし私有地内の路駐なので、警察も取り締まれない。
「・・・まったく、『あんたの土地か!』っていう感じでね・・」
きれいな声のお母さんは、少し怒りを込めてこういっていた。
お母さんは足を悪くしているから、やはりこのお店の食材の買い出し後、路駐をしたことが有って、通報されたことがあるんだそうだ。
そんなことが続いて、でもこのお母さんは素敵な人だから、その古本屋の近くの他のお店のかたが「もう、あんな通報いやだろ?ここに停めたらいいよ!」って言って場所を提供してくれたので、もうそういうことから逃れたのだが、
古本屋のご主人が「近所のちょっとした迷惑モノ」、であるという見解は、多くの人の感じるところらしい。
流行っていない古本屋を高齢だが建て替えたときも、他の兄妹から遺産を諦めさせるような形で行ったらしく、その愚痴をお母さんは聞いたのだそう。
・・・と、ここまでは、完全に「悪口」とも言える会話だった。
常連客が「それにしても、あと数年続けられるかどうか的な店をよく兄妹と争ってまで建て替えたよね」と悪口に薪をくべようとしたとき、
お母さんはきれいな声でさらっとこういったのだった。
「・・でもあの古本屋、2階には、珍しい全集とか今では買えないような高い本がいっぱいあるらしいよ。」
「え!ほんと?!営業してるかどうかさえ怪しい店だと思ってたんだけど、そうなんだ!」常連客はびっくりしていた。
その後も他のいろんな客のお話をお母さんと常連客は繰り広げていたが、正直な意見交換の姿に、私は嬉しくなったし、だからといって誰かを責め立てるようなことに終わらないエネルギーに、このお店の長く支持された理由を感じた。
私はこのお母さんの審美眼というか、「悪口を言わない、ではなく、いいところをきちんと観ている」というところに、感動した。
それは形ではなく、
「悪口を言わないのが素晴らしいことだから」でもなく、
ご自身の長年の交流体験を基礎とする、とてもニュートラルな心で述べられた言葉だったから、私は感動したのだった。
このお母さんだって、時には悪口を言わないで頑張って疲れて寝込んでしまったとか、悪口を逆に調子に乗りすぎていって客が減ったとか体験して、今のお姿があるのだろうと思う。
そうやって、自然に身に着けていけばいいのです。それこそが、続く美しい習慣となるのです。
お母さんは頑張って、「悪口を言うな」なんて習ってやっていないと思う。
「悪口を言わない」などということを「いい子」してやっている人が出すエネルギーというのは、もう半端なく居心地が悪くなるものだ。
癒やし系セミナーなどでこういう人種をいっぱい観てきた。
「~~しないで」という言葉が、「~~しろ!」というふうに脳には伝わるから、否定言葉で子供には何かを伝えるなと言うのは有名な話ですが、
(例えば「食べるな!」で人は過食症になる・・)
「悪口を言わない」ことをしている人が、
ニコニコとして、どんどん内部に怒りを無意識的に溜め込んでいたり、
「私素晴らしいでしょ」というエネルギーを出しているのを見るたびに、
彼・彼女が、どれだけ無視されてきたかとか、意味なく馬鹿にされてきたか、と思う。
そんな人がいっぱいいるというのに、
「悪口を言うな」ということをまだまだたくさんの偉い人たちが、さも真実のように語っているのを観ると、
「不満や怒りを出させてあげてほしいなあ」
「疑問に思うことがあったら、正直に誰かに問うたら駄目なのだろうか?」
などと思ったりします。
この世にはまだまだ「いい子誘導」がたくさんあって、
私は根っからの自由人だから、そういうのを観ていたりすると、もちろん疲れてしまいます。
「悪口を言うな」というのは、いわゆる「真理」かもしれませんが、
「悪口を言ってみたらどうなるか」という体験を通して「悟りを得る」、ということのほうが私は人生では大事な気がします。
失敗も、体験するのが許されているし、あれするなこれするな、で死ぬことも多い気がする。
悪口も感じたら言ってみる、その結果は自分で刈り取る、
たくさんあまりいい実を刈り取らないのを体験して、
初めて居酒屋のお母さんのような発言とエネルギーを出せるのではないかと思います。
人生、これでいいのでは?って思うんですよね。
・・・失敗もさせてくれない最近の世の中の悲しさ。
「悪口を言いたくなるような気持ち」を「主体性」=自分がどう思うか、といいますが、
「悪口を言うな」という言葉は「客観性」=世の中で真実だと言われているようなもの、です。
客観性を重視すると、自分の幸せがわからなくなったり、形だけ、が人生に溢れかえって、がんじがらめになったりします。
「悪口を言うな」ということをやっている人のたまに出している、
小さな我慢の、小さな嘘のエネルギーが、
つまりは私は嫌いなのですが、(本当に言っていない人はいないし、それこそエネルギーで批判したりしているのを感じます、おんなじことだ)
客観によって我慢や怒りを溜め込む人が多い、ということも私は感じているのです。
「怒りを出す」のが、魂のデトックスの基本。
我慢しないでね。
正直に生きてください。
聖人になるようなことは、それをたくさんしてから結果としてくるものなのです。