このクジャクサボテンが私のもとにやってきて、はや20年経つのですね。

4月ぐらいに、「昆布?わかめ?」みたいな、この水分の多い葉っぱが茜色の芽を出し始め、「どれだけ大きくなるんだか・・・」っていう蕾になって、派手な白い花を咲かせる5月は、楽しい季節です。


その花の季節が終わると、剪定し、根本に日を当ててやるようにします。

新しい葉っぱが出てくるので、そうします。

たくさん葉っぱを残しておいても仕方がなく、風通しと日当たりをよくしてやらなくてはならない。


欲だらけの人生は、葉っぱを剪定できないことと同じだなあ、とよく思うが、

しかしこのクジャクサボテンは、細い、あまり立派じゃない意外な葉から蕾が出てくることもあるし、

本当に予想が出来ない、未だに面白い植物だなあと感じる。

そんなあっという間の20年だった。



さて、このクジャクサボテンを、きれいに、形良く、体裁よく、育てているのを私はあまり見たことがない。

どんなに頑張っても、写真の通り、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、細い茎だけが伸びたり、葉っぱも大小、細かったり厚かったり。


更に、根本から伸びる葉っぱは、必ず支柱とフレームの外に伸びる。

毎年、支柱を抜いて、フレームをくぐらせ、まとめないと、冬越の室内では邪魔になる。

毎年、「なんとかフレームの中に伸びないか」と願うが、一度もそんな事は起きない。



はっとする。

子育てしている人も、これとおんなじことを思うのではなかろうかと。


「ある程度」よくあるパターンの生活や人生を過ごしてくれればいい


こんなふうに、子供には思うものではなかろうか。

このフレームは、我々の「心の枠」とおんなじだと思った。



「フレーム」は、いいときも悪いときもあって、

例えば「子供を産んで育ててみよう」と思うとき、「誰かの真似をすれば、だいたい大丈夫」と思って産める、ということもあるし、

「学校行かなきゃだめ」とか「大人は働くもんだ」みたいな、集団欲や世間催眠と思われるような、ただの個を縛る価値観になることもある。




ひょんな事で、私はこんな面白い人生の、人の魂とか命とか本能について詳しく追求するような仕事についてしまったから、こんなふうに思うのですが、

個人の命とか魂、っていうのは、すごーく、「フレーム」に入れにくい事が多い!



しかし、我が家で成人式を迎えるクジャクサボテンには、フレームに収まってくれないかな、なんていまだに思っている。


私は笑ってしまった。



不格好で、フレームからはみ出しまくるクジャクサボテンのほうが絶対正しいし、体裁いい鉢にならないのに、春にはゴージャスな花を咲かせるこの植物は、私の人生そっくりだ。

サボテンなのにトゲはないし、ゴージャスな花は意外と臭く、更には丈夫で、株が弱ったことなど一度もない。




一度だけ「失敗したなあ」という記憶は、冬に水をやってしまい、春に花がほとんど咲かなかった時があった。

冬は断水して過ごさせるのが、正しい冬越しなのだ。


「タイミングを見計らった、休息とか休眠は大切だね」

クジャクサボテンにそう言われたような気がしたものだ。



そのころ私は30代前半で、がむしゃらに、自分の手で人生をどうにかしようとあがいていたから。


正しい栽培の流れは、冬は断水、春になったら夏までにきちんと施肥して、フレームから出まくる葉っぱを伸ばし、夏は木陰に、秋に時々植え替えて、きちんと寒さに一度当ててから室内で冬越し。

こういう流れを覚えられて、花が満足に楽しめるようになったのは、最近のことかもしれない。


太陽と、クジャクサボテンを理解して、自分はそれに従って水をやったりするだけ。

人生もそれでいいような気がする。

神に添い任せ、自分を理解し自分に流され、社会のやりくりをする。





ここしばらく私は「子育て中」のお母様のセッションや相談がほとんど仕事の中心だった。

「何かを育てると、自分の限界が分かる」と、吉本ばななの小説で読んだことがあるけど、クジャクサボテンは根気よく私に、宇宙とか命とか魂について教えてくれた。


しかし子育てというのはクジャクサボテン栽培のように手軽ではなくて、「頑張り」だけでは切り抜けられない、ということを教えてくれるのだろうと、クライアントさんたちを見ていてそう思う。限界を知る機会、になるのだと思う。ひとの命は重い。

限界を感じて、ふわっと我が療法室にたどり着いたひとが、「人生の地図」を初めて見るのに遭遇していると、生きている意味を感じる。



世の中には、まだまだ、私の声は届いていない。よって、私が幼少期体験したような辛い体験はまだまだあって、それよりもひどいこともいっぱい起こっていて、それを一般的に「理解できない」というエネルギーでこの世は満ちている。

「虐待」のシステムや「脳の構造と行動のシステム」が、全然一般的ではないからだ。


それを理由に、子供がひどい目に遭っているのは悲しいことだが、

もっと幸せに、楽に、自然に、楽しく暮らせる「道」もある、ということを信じて広めていきたいし、いろんな事をしていきたいなあと思う。

「道」は、我々の「心」が限界を作っているだけだと思う。



今年もまた秋には、クジャクサボテンのフレームから飛び出た葉っぱを、私は性懲りもなく笑いながら収めるのかもしれないが、

「シェフレラ」を縦に伸ばす的矯正を止めたように(シェフレラはよく、縦に伸ばした支柱に縛り付けられてコンパクトに仕立てられているが、元々は大樹の根本辺りに横に伸びる、大樹の根本が乾かない的役目をする種類)、

新しいクジャクサボテンの扱い方を学ぶ時が来たのかもしれないなあとも思っている。

さてどれぐらい葉っぱたちが「支柱」や「フレーム」を必要としているのだろうか。
耳を傾けてやろうと思っている。

クジャクサボテンが、魂を自由に、謳歌するために。



子供から学ぶことが多いように、私も植物からまた一つ学んだ。

魂を受け入れ、理解するというのは、興味深いことだと思う。

魂の地図を見る見ないで、人生が変わる。フレームがぐぐっと大きかったことを知ったり偏りを受け入れたりデトックスしたり、受容・改善するのが催眠。


この秋はもう少しクジャクサボテンの声を聞いてやろう。
もう20年も一緒にいるのだから。



こんなふうに時々、家族や大切な人の「個」を、フレームを除いて観てみる、というのは、興味深いことかもしれません・・

年齢も学校も仕事も性別も立場も財産もなんにもない、ただのひと、を・・


クジャクサボテンはそんな事を囁いてくれています・・・



ではでは。。。